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2017年11月22日 (水) | Edit |
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 集中すれば、集中を妨げようとして、脳が反応をし始める。

例えば『坐禅』を組む。呼吸に伴うお腹の中の変化、息の動き(感じ)に意識を集中しようとすると、さまざまな雑念が浮かんでくる。

「肚で息を感じるとはこれで良いのだろうか?」「こんなやり方で大丈夫だろうか?」その思いに意識が行っているときには、お腹の息から注意が逸れてしまっている。

逸れたらお腹の息に注意を戻せば良いのだが、それが案外に難しい。「脚の組み方が違っているのではないか!」「背筋を伸ばさなければ!」「鼻で息をしなければ!」。お腹の息のことはほっぽらかしで、正しい坐り方を確認しようと、次から次へと考えが浮かんでくる。当然、お腹の息のことなど忘れている。

ようやく考えが途切れて、お腹の息に注意を戻し、呼吸の変化を感じてみる。集中できたと思っていると、こんどは身体のあちこちが気になり始める。「肩が重苦しい!」「足が窮屈!」「首が辛い!」「鼻がかゆい!」そこからまた考えが浮かんできて、「姿勢を直して良いのだろうか?」「鼻を掻いても良いだろうか?」。いつの間にかまたお腹の息から注意が逸れてしまっている。

再び息に注意を戻すが、「そうだ無にならなければいけない!」「ポカンとしなけりゃ!」「雑念を消さなくては!」とまたまたお腹の息のことをすっかり忘れて、意識的な工夫と努力を始める。

努力に草臥れて、お腹の息のことを思い出す。あわててお腹の息の動きに注意を戻す。集中する。しばらくすると今度は妄想がやってくる。「(日常の場面が浮かんできて)ああ、あれはこうすれば解決できるかもしれない!こんなところで坐っている場合じゃないぞ!」「光が見えてきた!これは悟ったのかもしれない!」「自分は凄かったんだ!やる気が湧いてきたぞ!」・・・。お腹の息のことはどこかに置き去りで、意識は妄想に耽っているのです。

お腹の息に集中しようとすると、それを妨げるようにして脳が活動を始めます。集中すると言うことは、脳に書き込まれた自我の地図を飛び出すところへと、注意を向けることです。脳からしてみれば、虚無の世界に意識を向けようとするように見えるのでしょう。脳は自分の中に保存された世界の外に飛び出し、その安定を妨げようとする行為に対して、ブレーキをかけようとするのです。脳にしてみればその支配圏の外側へと意識が飛び出すことは、存在を脅かすタブーなのです。

お腹の息に注意を向けようとすると、「怒り」や「悲しみ」の感情が浮かんで来ることもあります。イライラしたり辛さが込み上げてきたり、これは敵や障害物に対する脳の反応。自分(脳)の存在を無視して、それを捨ておこうとする『集中』を妨げようと、脳が足掻くのです。
脳が脳のテリトリー=支配圏を平穏に保つための反応が、雑念や妄想・情念なのです。意識がその支配圏の外に出て行ってしまうことが、脳にとっては許されない。脳は我がままなんですね。自我と言い、エゴと言います。

けれどもこんなエゴをいくら構っていても、集中は成り立ちません。集中の成り立ちのために何ができるか。繰り返し、お腹の息に意識を戻し、呼吸の出入りに伴なう腹圧の変化=お腹の中の微細な動きの感覚へと、脳の誘惑を構わずに意識を繰り返し繰り返しお腹に戻すことが必要なのです。

「雑念が浮かんで(呼吸に)集中ができない!」と嘆く人が居ますが、実は雑念が浮かんでくるのは、集中が出来ている証拠です。ただし私たちは雑念の誘惑に囚われることが大好きなのですね。雑念の誘惑を構わず、それに囚われずに「お腹の息」に注意を向けるという単純なことを繰り返せば良いだけなのですが。

集中が深まれば深まるほどに、脳(エゴ)は繰り返しその人にとって切実な雑念妄想をもって、集中を妨げようとします。雑念と、「いき」(呼吸)に向かう意識との間に起きる葛藤の高さこそが、深い集中の証拠なのです。どんな魅惑的なあるいは驚異的な考えや妄想が浮かんできても、繰り返し「いき」へと注意を投げかけ続ける。その先に何があるかは考えない。雑念・妄想がやって来ては、お腹に注意を戻す。この繰り返しが『集中』です。

こんな『集中』を繰り返す結果、脳(エゴ)の支配に囚われることのない自由が、少しずつではありますが、自然に私の(からだの)中から育ってくるのです。天衣無縫、囚われのない行動と発想が私のものとなってくるのです。「いのち」の解放です。

雑念や思考を嫌い「無・無心」や「空」になること、或いは「光になる」ことを、自己に強いる人を良く見かけますが、それは大きな間違い、勘違いです。そんなことをしていては、病気になるのが落ちです。妄想や雑念を消し去るとは、心の働きを圧殺すること脳自体を苦しめることです。

むしろ雑念や思考は、集中の深まりの証拠、あなたの向かう方向は正しいのですと、脳がにぎやかに教えてくれていると考えることができます。

仏教でいえば『煩悩即菩提』ですね。悩みや苦しみ迷いがそのまま自由自在であるという体験。煩悩と菩提、雑念・情念と息・肚との間の往ったり来たり、その葛藤の中、その循環運動の中に『生きている』と言うことは在るようです。

思考や感覚・イメージに惹かれたら、それをどうこうしようとし始める前に、間髪入れずに忘れた「いき」に注意を戻す。誰にでもできることです。

でもやってみると結構大変。人は妄想が好きですからね。妄想の中ではどんなことでも叶うと思えてしまう。妄想の中ではどんな言い訳も肯定される。或いは問題解決に地道を挙げるのも、妄念です。

何ものにも囚われることなく、自由にのびのびと生きていきたいと望む方は、どうぞ「いき」のレッスン(坐禅の呼吸)を、やってみてください。

    *    *    *

ここでは、お腹の呼吸(丹田)への『集中』を例にしていますが、このように自らの内部に向かう集中と、他者や外部に向かう集中とは、全く同じです。

『集中』によって、他者や対象物が、脳のフィルターを介さずに直接にその本来の姿を、繰り返し新たに見せてくれるようになるのです。「いまここ」に世界が新たな意味を持って繰り返し現れて来てくれる。

学校での黒板への集中は、自らの心と脳を縛り、発想の自由を奪い、病を深める集中です。それを集中だと思い込んでいる人が多くいます。本当の『集中』とは、私たちに発想や創造、行動の自由を与えるものであることを、知っていただきたいと思います。

    *    *    *

私は、月に二回ほど坐禅をしています。と言っても、友人が主宰している「マインドフルネス実践会」に行って、「坐らせてね!」とお願いして、マインドフルネスのことは全く構わずに、自分のために坐を組みます。

30分くらいの瞑想時間が2回組まれているので、友人の講義やファシリテートはまったく無視して、ただ自分の呼吸に注意を向けるのです。自己流なので坐禅というのも憚られるのですが、胡坐を組んでお尻に座布団を敷いて、お腹の息に注意を向けるだけ。

通い始めて、もう3年くらいになりますが、これがとっても面白い。普段はレッスンに来てくれる人と一緒に「からだ」のことで四苦八苦していて、自分のためだけの時間が取れないのです。ところがここでは、まったく人のことを構わないで、自分の為だけに時間を取れる。

ひとつには、放っておくとズルズルと流れ去る日々に句読点を打てる。リセットして、また次のクールを新鮮に過ごせるのです。

そしてこれは何より面白い発見ですが、坐るたびに自分の「からだ」の印象が新たなのです。2度と同じ体験がありません。

じっと坐って息をしているのだから、外から見れば、何も変わらないように見えるのですが、30分×2回の坐の中、自分の内側で体験される印象は毎回異なり、同じ坐というのは一度もありません。

だから、「またか坐るのか~!」というのが一度もないのです。3年も通っていても全く飽きることがない。「からだ」は留まることなく常に変化を続けているので、当然と言えば当然のことかも知れませんが。

先日など、坐ったままで居眠りをしていました。電車に座ってコックリするのと違って、胡坐をかいて坐ったままで、微動だにせず眠っているのです。目覚めたり寝入ったりの繰り返しですが、坐ったままそれをやっている。「こんなの在りか?!」あとから自分で呆れていました。

まあこれは極端な体験ですが、坐を繰り返す中では、僅かであっても必ず新たな体験があるのです。それを細かく書き出すことはここでは避けますが、繰り返すことで姿勢も変わっていきました。先に書いたような『集中』を繰り返す結果として「からだ」が変わっていくのです。

    *    *    *

「からだとことばといのちのレッスン」では、このような『集中』の体験を大切にしています。本当の集中によって、かけがえのない本当の、ひとりひとりの個性を育むレッスンです。
(瀬戸嶋 充・ばん)

【Facebookへの前書き】
言葉で説明するのが難しいのが『集中』です。けれども何とかしなけならないと私は思っています。とても大切な言葉に関わらず、世間では、誤った理解が大手を振っているようですす。もう少し分かりやすく伝えたいとは思うのですが、いまはこれで精いっぱい。『集中』という言葉への一般的常識的な誤解は、人間の持つ自由な発想力・想像力に蓋をします。生命力をも閉じ込め奪ってしまいます。恐ろしいことです。納得いくまで繰り返し言葉にすることに挑戦を続けなければなりません。もちろん「からだとことばといのちのレッスン」の場では、こんな『集中』が実践されているのですが。

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2017年11月18日 (土) | Edit |
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 人間と演劇研究所‐特別講座


『からだとことばといのちのレッスンWS合宿-第10回』

2018年2月10日(土)西武秩父駅集合12時50分~12日(月)西武秩父駅解散17時00分

埼玉県立秩父大滝げんきプラザ(埼玉県秩父市大滝 5944-2)

『「からだ」とは全てを映す透明スクリーンです。「眼鏡に適う」と言いますが、私たちは自我のフィルター(眼鏡)越しに、このスクリーンを見ています。フィルターとは脳に書き込まれた個人的な価値観=エゴなのです。「あるがままに見る」と言いますが、スクリーン(からだ)に去来する映像をそのままに見るには、息の深さと、エゴに妨げられることのない集中力が必要です。スクリーンに映される光景に「こころ」を奪われるとき「いまここ」が成立します。その透明スクリーンに物語を投影し、その世界に参入するのが朗読劇です。宮沢賢治童話の世界にご一緒しましょう。』

昨年11月に引き続き秩父大滝げんきプラザでの開催になります。プラザの宿泊研修施設を一棟丸ごと借り受けて、空調のよく利いたフローリングの広間で、気兼ねなくレッスンに集中できます。青少年の育成施設のため、食事は質素で宿泊は男女別の大部屋ですが、お風呂も広く、気持ちよく過ごせる環境です。西武秩父の駅からタクシーで40分ほどかかる立地ではありますが、標高900メートルの山頂直下に位置し、秩父の山並みに囲まれ見晴らしの良い宿舎です。

合宿の良さは、時間を気にせずにゆったりと「からだ」と「ことば」への出会いを深めていけることです。定員も7名に限り、一人一人のレッスンに時間をかけることができます。3時間~4時間という普段の定例会の短い時間の中では、手をかけることのできない、深い集中が可能になります。

日常のストレスやしがらみを離れて、のびのびと自由にふるまえる自分を楽しんでください。

今回も宮沢賢治の童話作品をテキストにして、いきいきとした「ことば」に出会うことを目指して、レッスンを進めます。

最終日には、賢治作品の朗読劇をすることで、からだ全体でのびのびと自分を表現してみる。また、仲間とともにことばの響き合いと交流を思い切り楽しみます。

「からだとことばといのちのレッスン」では、『野口体操』によって「からだ」の強張りをときほぐし、深い呼吸を取り戻し、その場に静かに安らぐ自分を見つけます。『竹内レッスン』は「こえ」と「ことば」の解放を目指します。明るくしなやかに、全身に響きわたる一人一人の本来の「こえ」を取り戻し、「ことば」のリズム(=息づかい)がひらかれることで、詩や物語の言葉に籠められたイメージを呼び起こします。

「からだとことばといのちのレッスン」の内容は、言葉での説明が難しいのですが、「からだ」と「こえ」「ことば」への様々なアプローチをもって、無理なくていねいに充分に時間かけて一人一人の個性的な表現を見出して行きます。その成果に見(まみ)えるのが、最終日の朗読劇です。(レッスンの実際の内容はブログをご参照ください。ホームページには動画を掲載しています。)
自分自身の新たな表現の可能性を発見することは、自己への信頼を回復することです。山を下り日常に帰り、いきいきと生活を楽しむために、合宿ではその手がかりを発見できることでしょう。

さまざまな方々の参加をお待ちしています。初めての方でもどうぞ。「からだ」と「ことば」の豊かさを、ひいてはご自身の本来の豊かさを、共に育んでいきましょう。

2017.11.18記 人間と演劇研究所代表 瀬戸嶋 充・ばん

人間と演劇研究所ホームページ https://ningen-engeki.jimdo.com/ 
ブログ http://karadazerohonpo.blog11.fc2.com/

◇参加費用 43,000円
レッスン費・宿泊費・食費と西武秩父駅から大滝げんきプラザまでのタクシー代金一人当たり往復5,000円を含みます。参加費は合宿当日に集金します。

◇定員 7名
少人数での開催になります。申し込みは早めにお願いします。ひと月前(1月8日)までに連絡をいただけると助かります。

◇申込み・問い合わせ メールもしくは電話にて、瀬戸嶋まで。
メール karadazerohonpo@gmail.com
電話 090-9019-7547

◇その他

・西武池袋駅から西武秩父駅までは、特急レッドアロー号の利用で1時間20分です。連休の混雑が予想されますので、事前の座席予約をお勧めします。

・施設には売店がありません。飲み物の自販機のみです。近辺にはコンビニ等の買い物ができるところもありません。お茶とコーヒー、懇親会の飲み物とおつまみはこちらで用意しますが、嗜好品等は各人で持参してください。

・当日の連絡先は、携帯電話 090-9019-7547 です。ショートメールも利用できます。

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ジャンル:心と身体
2017年11月16日 (木) | Edit |
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かつて、こころの浮き立つ「声」を聴いたことがある。その人の声を聴いているだけで、私自身のこころの底から、息の温もりがフワリと湧きあがって来る。自分のからだとこころが開け放たれて行く。自分の顔の表情も明るく開かれ、思わず微笑みが浮かび上がってくるのが分かる。恩師、竹内敏晴の「声」によってである。

以来、残念ながらそのような「声」に出会ったことがない。竹内が東京を離れ名古屋に移ったとき、東京に残された私にとって何が寂しかったかと言えば、あの「声」が聞けなくなったことであったと、今になって分かる。

竹内以外の誰かの話でも、話の内容を聞いて、その明快な考え方(論理)に感心することがある。語られる体験談に感動して聞き入ることもある。けれども自らのこころの底、からだの奥底――それは意識の届かぬ「いのち」の領域なのだろうが――を沸き立たせ、聞き手のこだわりを解き放ち、無心に話の世界(内容)へと、私を引き入れ夢中にさせる。そんな話し手と、その「声」に出会ったことは、以来ほとんど無い。

私は、そんな「声」を求めてからだとことばのレッスンを、繰り返して来たようだ。

明快な論理や知識を語るには、聞き手にとって言葉の意味内容、つまり何を言っているかが分かれば良い。「声」が問題となるのは、その大小と発音の明確さくらいのものである。マイクロフォンと活舌のトレーニングがあれば、何とかなる。

聞き手を感動させるには、語り手の心の動き(気持ち)をそれらしく誇張して「声」に乗せる。温かく優しく胸にしみる声、悲しく胸を詰めた声、喜びに息が弾む声、怒りに震える声、いわゆる、言葉や文章のニュアンスを「声」に乗せ、再現する。これも身体を意識的に操作することで、可能である。身振り手振りを交えるのも、その延長にある。

どちらも、発声器官と呼吸の操作なので、その方法=「声」の使い方を、技能としで習うことが出来る。

これらの「声」は、話し手から聞き手へと、その距離を隔てて、耳や、からだに響き、思考や心の戸を叩き、話の内容や情感を私に届ける。話に耳を傾ける私にとって「声」は外部からやってくるものだ。

竹内の「声」には、この距離が無い。話し手と聞き手を隔てる、例えば、講演者と聴講者、先生と生徒、カウンセラーとクライアント、医者と患者などなど、それぞれの立場を隔てる空間的或いは心理的距離が無効になってしまう。

竹内の「声」はというと、説明が難しい。それを聞く者にとって、竹内の声は向こうからやってくるものでは無い。竹内の「声」(ことば)が自分の中から聞こえてくると言えばよいだろうか。話し手も聞き手ももろともに「声」に浸されるというか・・・。

そういえばこんな体験があった。スピリットキャッチャーという楽器の演奏を聞いた時のことである。割り竹をしならせて、弦を緩く張ったものである。和弓を80㎝くらいに縮めた物と言えばよいだろうか。それを空中に泳がすと、弦が空気を孕み震えだし、ブーンという低い音を発する。古くからの民族楽器に想を得て作られたものだろう。

その他にチベッタンベルやお鈴(りん)、鉄琴などと共に演奏するのを、屋外の芝生に寝転んで聞いていた。眼を閉じてその複雑微妙な調べに耳を傾けていると、不思議なことに音楽が自分のからだの中で鳴っているのである。音楽は奏者の方向から聞こえてくるという常識が覆えされた。

山本安英さんという女優の話を聞いたことがある。戦前戦後を通じて新劇の旗手として活躍し、演劇の世界では、名実ともに認められた大女優である。

その舞台を観た人の話であるが、山本さんが舞台に登場すると、観客は彼女から眼が離せなくなると言う。眼が、心が、自分が奪われるのである。山本さんという人は、小柄で細面のうりざね顔で、特にスタイルが良いわけでも美人でもない。外見上はスターというよりもどこにでもいる、おばさんである。美形とは言い難い。

ところが観客は、彼女が舞台に立つなり私という実感は消え去り、山本さんの演じる戯曲の登場人物の一喜一憂を、我を忘れて直接に体験するのである。彼女の演技を通じて、観客自らが舞台という虚構の世界に踏み入り、物語の世界を体験するのである。

現在のエンターテイメントのように、舞台から観客へとメッセージや演奏を、浴びせた倒すようなこととは、根本的に表現のもつ意味が異なるのだ。

私が私淑していた、哲学者であり教育学者であり、宮城教育大学の学長退任後には、全国の小学校を回って授業行脚を続けた、林竹二の授業の逸話にもこのような「声・ことば」の不思議が語られている。

南葛飾高校定時制での普通授業。林自ら一教師として生徒の前に立ち授業をしていた。見学者や教員の立ち合いは無い、林と生徒だけの授業である。南葛飾高校定時制は、既成の学校制度に適応できない生徒たちを受け入れて、教育の真価を問う実践をしていた学校である。俗に言うゴンタや落ちこぼれが通う学校である。

教壇に立って、声を張り上げることなく、ぼそぼそと語り続ける林に対して、生徒たちは勝手な態度で、後ろを向いたりおしゃべりをしたり自由に振る舞い、前を向いて背筋を伸ばして黒板に集中するというお決まりの授業態度からは程遠い。ガヤガヤワサワサと落ち着きのない教室風景である。担任の先生が、心配になって廊下からこっそりのぞいていたそうだが、生徒たちの勝手な振る舞いに、これでは授業は成り立たないだろうと思っていたようだ。

林竹二は授業を終えて、生徒に感想文を書いてもらう。生徒の感想文を持って自らの授業を検討・検証するのである。生徒に自分の授業が通ったかどうかを吟味する。この時も、感想文を生徒に書いてもらった。そしてそれを読まされたクラス担任は、生徒の頭や心の中で授業が成り立っていたことに、驚かされたのである。

林竹二の何が授業を成り立たせていたか?これも大きな不思議である。

これらを思うとき、私は「無声」の「声」を考えるべきだと思う。私たちは、耳に聞こえ心(=からだ)に響く声のみを「声」として、それによって言葉を組み立て他者に語ることを考える。声楽・ボイストレーニング・話し方教室・スピーチ法・感情表現などなど、意識に捉えることのできる、いわば「有声」のみを対象に「こえ・ことば」のことを考えている。

それは「声」と「言葉」の可能性を卑小化して考えることである。「無声」の「声」は、自他の壁を無き物にして、自他という近代的観念を超えて、人と人とが直接に一つの「いのち」を生きる喜びを探る手がかりを与えるだろう。「無声の声」によって紡がれる「言葉」こそ、人間同士の深い信頼を回復する手立てとなるように思う。

実は、このことはそう難しいことでは無い。近代化以前・文明開化以前には「無声の声」によって紡がれる言葉が、日々の営みの中に息づいていたと思う。近代化文明化によって、私たちの常識の外へと追いやられてしまったものだろう。どこかへ行ってしまったわけではない。鳴りを潜めているだけのこと。呼べば届くところで「無声の声」は私たちを待っている。ちなみに竹内の「声」はアッケラカンとした割れ鐘のようで、美声からは程遠い。語り口調は柔らかな江戸弁であった。

「無声の声」は、人間関係での有用性を求めて加工される以前の「声」と言っても良い。ありのままの声、裸の声、本来・本当の声・自然の声・息遣いとしての声とも言える。

私たちは自我の発達に伴い、天然の声を忘れる。環境や状況に応じて声を固める。それは天与の声ではない。一人一人の発声器官はそれぞれに形態が微妙に異なる。本来は一人一人の身体の個性に応じて、一人一人の個性的な異なりを持つ「声」がある。その個性が流れあい響き合うところに、「無声の声」の交響が起こり、いのちを沸き立たせる。ひとつの「いのち」の渦の中に私たちは身を浸すのである。

様々な個性が個性的でありつつも、ひとつの響きを生きる。個性が輝きつつも同時に自他の区別を離れて「ひとつ」に溶け込む。『祝祭』だ。

最後に。

以前、詩人の草野心平さんが、賢治の詩『永訣の朝』を朗読している、録音テープを聞いた。ガラガラ声の濁声(だみごえ)で、言葉を聞き分けることがほとんどできない。けれども私の「からだ」の内側をドシンドシンと巌で打つように、「私」という丸ごとの存在に揺さぶりをかける。まるで縄文の民が私の「からだ」に入り込んで、明るく雄たけびを上げているようにも思える。私の心底は破られ、大地の底と通底する。

賢治の詩に『無声慟哭』がある。「永訣の朝」と隣り合う、妹、とし子の臨終を謳った詩である。「無声の声」の成り立ちを求めるのが「からだとことばといのちのレッスン」。賢治の遺した「声」と「ことば」の中に潜り込むことに、「無声の声」に至る、ひとつの手がかりを私は観ているのだ。

【Facebookへの追記】
自分の本当の「こえ」を探している人に、お目にかかったことがありません。あり合わせの既成の声を、嫌いだとか気に入っているとか、小さいとか大きいとか、高いとか低いとか、良いとか悪いとか、勝手に判断しているだけで、それが自分の本当の声かどうかを考える人は居ないのです。
レッスンの中で自分本来の声が出たとき、自分の声では無いみたいだ!と、たいていの人が驚きます。これは自分の声では無い!と懐疑的になる人もいます。本来の「こえ」とは、人に媚びない声です。人の都合に合わせて体裁を作ろうことの出来ない裸の声です。一人一人に与えられた、天与天然の個性です。その声は、発すること自体の喜びと、明るい心底からの解放感を伴います。同時にその響きに接する、或いは声を聴く人たちの心とからだを明かるく照らし浮き立たせます。
「声」の可能性を開きたいと思う方は、レッスンにいらして下さいね(笑)


2018年2月10日~12日には、埼玉の秩父で合宿です。ご案内は、人間と演劇研究所HP https://ningen-engeki.jimdo.com/ をご覧ください。

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ジャンル:心と身体
2017年11月12日 (日) | Edit |
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私たちは、闇雲に知識を求める癖があるようだ。自分が求める知識はほんの一握りなのに、学校などでは、一律に膨大な知識の習得を求める。

私の高校時代、倫理社会という科目があって、その副読本に様々な偉人の解説があり、ソクラテス(プラトン?)の肖像写真が載っていた。つまらない授業中、その写真に髭を書いたり髪の毛を逆立てたりして遊んでいた。そのページに『無知の知』と書いてあった。この一言が今から見れば、私のこれまでの生き方に、大きな影響を与えていることは歴然としている。

ソクラテスが何をしたか、どんな実績を残したか、哲学とは何か、などの解説が副読本に書かれていたと思うが、さっぱり覚えていない。

やがて大学卒業の頃に、林竹二(哲学者・教育学者)を通じてソクラテスに出会うが、『無知の知』の意味が分かったわけではない。ただし『無知の知』の意味はつかみきれないままにも、とても身近な言葉と感じていた。

理系の夜間大学に通っていたが、授業が全く分からない。物理の方程式を暗記することは出来るが、その意味が分からない。暗記と、その内容が腑に落ちることとは、私にとって大きく異なる。身に着くというが、暗記したものは時間が経てば零れ落ちる。身に着けばそれを自在に使うことが出来る。暗記ほどにつまらないことは無い。テストの成績というご褒美は貰えても、私の学びへの意欲は、いっかな満たされることは無い。

そんな時に『無知の知』は私の身の内に飛び込んで、消え去ることのないものとなった。ただし内容が理解できて腑に落ちたのではない。言葉自体が、腑(からだの奥底)に落ちてしまい、私の考えを底から支えるようになったのだ。

お陰で、私は多くの知識を持つことに、興味を示さない。いわゆるインテリを鼻もちならいと、見下すところがある。むしろ地道な生活の中に根付いた、生きるための知恵に関心させられる。話をしたり、料理を作ったり、掃除をしたり、散歩をしたり、家族や子供と過ごしたりそんな普通の暮らしの中に、無限の深まりを持つ知恵が生きているように私は思う。

『無知の知』とは、人間としての生を底支えする、あえて取り上げ意識されることのない知恵であろう。それは「有知」に煩わされぬところ、つまり習得された知識を剥ぎ取ったところに残る、人間を人間として生かしめる無形の知識=「知恵」であろう。

レッスンもこれに倣う。「からだって何?」その答えが、私自身のからだと一つになるまで探求を続けることを繰り返してきた。

例えば『野口体操』の「逆立ち」。天地に浮かぶように空間に溶けるようにフ~ワリと立つ。一切の力みが消え、水底から海藻が水面に向かって立ち上がるようだ。体育で習う逆立ちとは見た目は同じでも、意味するところが全く違う。意識的に身体をコントロールすることを放擲して、「からだ」が立つべくして立つ。努力はいらない。

私は以前より、体育で習う逆立ちは出来ていた。そのため逆立ちをすると、無意識のうちにバランスを取ろうと身体を緊張させてしまう。頑張り癖が付いているため、逆立ちをした時に力が抜けない。『野口体操』の「逆立ち」にならない。

何度やっても、自分が出来ているという実感を持てない。『野口体操』の逆立ちの原理や説明(=新たな知識)には納得していても、実際には過去に身に着けた体育の逆立ちのやり方(=既成の技能・知識)が私の「からだ」の自然の在り様を妨げる。

『野口体操』の「逆立ち」と私の「からだ」がひとつになるまでに、7年の月日がかかった。と言っても特別に努力をしたわけではない。自らレッスンを指導する合間に、徒然に繰り返してはいたが。それがあるとき突然できたのだ。というよりもやってきたと言ったほうが良いかもしれない。知識と意識と「からだ」がひとつになるとき、それらの区別は解け去ってしまう。浮かんできた言葉は「ああこれか!」のひと言である。「逆立ち」という言葉と「からだ」がひとつになるとき、「私」という実感は消え去り、世界を満たす空気そのものになってしまうような感じだ。言葉にしがたい喜びがある。

おそらく、外から見れば、赤ん坊が初めて独り立ちをした時の、なんとも頼りなく、それでいて新たな世界に向かって開かれた姿に似ていたことだろう。

知識と「からだ」がひとつになる例として私の体験を取り上げたが、少々分かり辛いかもしれない。そのうえ、知識と「からだ」がひとつになることを、現代人はあまり大切にはしていない。そんなことより、新しい知識を次から次へと消費することに躍起になっているように見える。

『無知の知』は、「知識」と自己の分離を許さず、自己の本性と知識を結びつけることを、それに向かいあう一人一人に迫る。自らの本質に属することのない借り物の知識は、引きはがされ、無限に続く新たな自己の再生へと道を拓く。

あるいは、ひとつの知恵をつかむことが、生きるためのすべてを知ることにも繋がる。日本語では、肚を据える、腑に落ちるとも言う。頭でもない胸でもない肚である。肚や腑は、腹=いのちの根源と知識がひとつになることを、古来日本では尊重してきた。それを「知恵」と呼ぶ。「知恵」はインテリの特権ではない。生活者にも、否、より善き生き様を願う生活者にこそ啓かれている。

    *    *    *

何やら小難しいことを書いていますが、レッスンの実践はシンプルで誰にでも分かる内容=実技を主にしています。
定例会・WSなど「からだとことばといのちのレッスン」のご案内は、人間と演劇研究所ホームページ  https://ningen-engeki.jimdo.com/ をご覧ください。
2月10日(土)~12日(月)埼玉県秩父大滝でのWS合宿を予定しています。興味をお持ちの方はご連絡ください。

テーマ:人生を豊かに生きる
ジャンル:心と身体
2017年08月13日 (日) | Edit |
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 笛に息を吹き込み、私たちは音色を紡ぐ。

 「いのち」は息の「ちから」なのだから、「いのち」が私たちに息を吹き込み、音を紡ぐ。「私」自身を笛として、吹き手に差し出すのが歌を歌うこと。言葉を語ること。踊ること。

 吹き手は「いのち」、その息づかい。歌や曲や詩や踊りの言葉に伝えられた、太古から蓄えられた記憶の混沌=地球、大いなる「いのち」が吹き手、奏者だ。

 天地のいきが、あるいは、時空を超えた息吹が自在に私を吹き鳴らしてくれるよう、私たちは私たちの「からだ」を整え、「いのち」に明け渡す。私たちが良き笛になれば、「いのち」が闊達自在にそれを吹き鳴らす。「祭りだ。祭りだ!」

 なぜ歌うために、練習が必要なのか?言葉を語るために、技術を磨かなければならないのか?そんな必要はない!

 大切なことは、身に着けた無理=自然を支配としようとする自我の傲岸不遜をそぎ落とし、素直になればよい。謙虚になればよい。虚飾をはぎ落し、素直に真っすぐに吹き抜ける笛になれば良い。天地はそこに押し寄せ、我れ先に私たちと言う笛を鳴り響かそうとするだろう。

 イメージとは無形の存在である。だからこそ様々な音色に姿を変え、豊かに私たちの心を彩る。「いのち」はイメージの母胎である。私が私であろうとする、その我心は、私と言う笛が自在に鳴り響くのを妨げる。赤子の時のような柔和な笛に戻ろう。息をよく受け入れられるよう、「からだ」を開け放とう。

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 先日は、「こえ」の身体各部への共鳴・共振をひらくレッスンだった。眉間に声を響かせる。おでこ、頭頂、後頭部、口腔、喉、うなじ、胸、腹、脚、細かく見れば、もっとたくさんの共鳴部分(部位)があるだろう。声音に合わせて、様々に響きを奏でる「からだ」の豊かさ。様々な楽器に相当する響きを、私たち一人一人が「からだ」に備えている。ただし、備えているだけでは「からだ」は鳴り響くことがない。

 多くの人が、自分の本当の「こえ」を知らない。ありきたりの声を自分のものとしてしまい、果たしてそれが自分の「本当・本来の声」(=「こえ」)と呼べるものかどうか、自身に問う体験を持つ人はほとんどいない。声の問題に答えるレッスンはここから始まるのだ。

 身体各部、身体全体の共鳴を呼び覚ましていけば、その人なりの「こえ」が心地よく響き始める。無理な力みや緊張は必要がない。楽々安々と声を発することが出来るようになる。

 ただし、現代人は「からだ」の感覚が鈍い。意識(頭)ばかりが良く働き、「からだ」を省みることがない。容姿を整えるのは得意なようだが、容姿の内側、身体内部の変化に対する感覚能力は、厚ぼったいカーテン越しに眺めているようなものだ。

 声を出すときの「からだ」のこわばりを解き、「ほら、声の響きが変わったでしょう?」と問いかけても、何を聞かれたかと言うようにポカンとしている人が、案外に多いのだ。一緒になって、辛抱強く繰り返し聞き分けていると、「あっ!」という開けっ放しの顔になる。共鳴部位が変わることで、声の響き(音質・体感)が変わるのが分かったようだ。

 共鳴のポイントをひらいていくと、「からだ」の中が空っぽになったように感じられてくる。体表の輪郭は柔らかく繊細になり、声の振動を受け「からだ」の内側から外部に向かって「こえ」が自らあふれ出す。声を出そうとする意識と努力は、必要がなくなる。歌を歌い言葉を語れば、そのリズムと声音が「いき」の弾みを生み、目くるめく息の変化が、私たちの「からだ」を利用してイメージを花開かせる。

 天然自然から与えられたこの「からだ」。一人一人が異なる響きを持っている。それが響き合って互いを開放し、世界を生み出すのが、群読や合唱の喜びだろう。正確に音声を発することなど二の次のことだ。響き自体が、私たちの「からだ」を調律していく。

 声・ことばの響きは、私たちの「からだ」の深みに眠る共有のイメージを呼び起こす。感動を湧きあがらせるのだ。感動の海の中に人々を浸し、人と人との垣根を洗い流す。これは演劇もダンスも朗読もみな同じ。

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 「からだ」のこわばりを解き、共鳴のポイントをひらいていくと、「からだ」の中が空っぽになったように感じられてくる。体表の輪郭は柔らかく繊細になり声の振動を受け、「からだ」の内側から外部に向かって「こえ」自らがあふれ出す。声を出そうとする意識と努力は、必要がなくなる。「私が、声を出す」のではない。「声自体が、私の中から外界にむかって踊りだす」のだ。

 歌を歌い言葉を語れば、そのリズムと声音が「いき」の弾みを生み、目くるめく息の変化=「いのち」が、私たちの「からだ」を利用してイメージを花開かせる。

 天然自然から与えられたこの「からだ」。一人一人が異なる響きを持っている。それが響き合って互いを開放し、世界を生み出すのが、物語ることの喜びだろう。正確に音声を発しようと苦労することなど二の次だ。響き自体が、私たちの「からだ」を調律していく。

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 言葉を語ることへ、歌を歌うことに、人に話をするときでさえ、私自身は長年、言葉を語ることへの不自由さを抱えてきました。「自分でちゃんと話さなければ!」と、いつも思っていて、人と話すたびに「ちゃんと」がついて回っていました。「ちゃんと」=「正しさ」ですね。

 その「正しさ」はどこから来たものなのか。もともと自分の中にあるものではありません。家庭や学校・社会が言葉を話すことの「正しさ」を私に求め、その期待に応えることに、私は一生懸命になっていたのでしょう。意識(無意識)の中に、「正しさ」が刷り込まれていたのでしょう。また「正しくない」自分が、恥ずかしかったのでしょう。

 いまは言葉を語ることが、喜びへと変わっています。言葉を語る意識的な努力をする替わりに、言葉が自由に活躍できるよう、自分の内側から溢れる言葉に「からだ」を明け渡すことが出来るようになったからです。「ことば」自体が、自意識に縛られることなく、「私」を語ってくれます。「ことば」のおかげで、他人との交流によって「私」が豊かになっていくのが分かってきています。

 「先立つものに心を砕け、結果は自ずから生まれるだろう。」ロシアの演出家スタニスラフスキーの言葉です。結果(舞台上の成果)は「自ずから生まれる」つまり、「どこからともなくやってくる」ものです。私たちに出来ることは、それがやって来てくれるよう、状況を用意することです。「先立つもの」とは「からだ」です。「からだ」を耕し調え、天に祈りつつ「ことば」の訪れを待つ。農耕の時代に還ることのようですね。