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2013年06月14日 (金) | Edit |
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Skypeを利用して、東京-徳島間で発声のレッスンをする機会がありました。その準備にSkypeの通信機材をセティングしている時のこと、Nさんにオーディオスピーカの使用について尋ねられた時のことです。

「私は、(向こう側で発される)耳にきこえない音声まで聞いているので、出来れば良いスピーカをセットしてほしい。レッスン中は、犬みたいなもので、普通人間には聞こえない音声まで私は聞いているのだと思います。」と何気なく答えていました。

考えることなくふと口をついて出た言葉でしたが、私にとっては、聞くことの意味をとても的確に表していると、後から気がつきました。

見る事もしかりです。Skype授業の発声練習の最中、先方の学生さんたちの声がちゃんと出ているかどうか、モニターに映る彼らの姿を食い入るように見ていました。Skypeの音声だけでは、声の変化がよく分からないのですが、声がよく出ている時には画面を見ているとそれが分かりました。この場合画面を通じて、声の変化が「見える」のです。

聞こえない声を聞いているのと同じように、見えない声を見ているのでした。正確にいうと、見ることと聞くことが一つになって、学生さんたちの声が十分に発された時には、ある手ごたえを伴って声が見えてくるのを感じていました。

特殊能力ではありません。演出家として数々の舞台に向きあう中で、私は目の前に見える役者の振る舞い(演技行動)や、聞こえてくるセリフの物言い(声と言葉)など、演じられる表向きの表現に囚われることが無くなりました。演出中に私は、全身を舞台に向けて立ち、役者のからだを通じて直接に私の心に触れてくる、感動を見つけ出すことに集中するのが、当然のことになって行ったためだと思います。

理解がむつかしいことだと思いますが、私自身はこのような意味での「見る」「聞く」が、当然のことになりすぎていて、誰もが当たり前にやっている普通のこととしか考えていませんでした。

演劇に関わらず、音楽や芸術作品を見聞きし、人の声をきいたり話しをし、仲間と意見や感想を語り合うとき、何とも言えない他者との嚙み合わなさを私が感じていたのは、人間関係の基本となる「見る」「聞く」ことの定義(意味)が、そもそもズレていたことに、今更ながらに気がついた次第です。

でも、誰でも観客として舞台に向かって我を忘れて集中している時は、まさにこういう見方聞き方を我知らずにしているのだと思います。意識的にそんな見方聞き方をしようとすると、難しいことかも知れませんが。

瀬戸嶋 充 記


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