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2013年04月01日 (月) | Edit |
結局のところ、レッスンが何を求めるかといえば、課題(ことば)を手がかりに、集中度を深めていくことである。どの次元から課題を成立させていくか。

ことばの成立のためのレッスンではない。言葉の成立のために何が必要か?そのために為されるのは、技術習得の積み重ねではない。

ことばの本質に付帯して、本質の表れを妨げているものに気付き、それをはぎ取っていく、若しくはその妨げに構わずに、その表れに向けて自己を差し向け続けることが、最優先される。

自ずと集中とは、自己を超えていくこととなる。既得の事象を超えたところに、自己の足跡を記すとも言えるだろう。

集中とは、集めていく作業ではない。自己の表出を引き留めるもの=自己意識(自我)と、それを打ち破り新たに踏み出さんとする自己=真我との織りなす葛藤の中で、自我を構わず、未知の一歩を踏み出すことにある。

一歩踏み出すごとに、脱皮を繰り返すに似ている。または水の中を歩み、自己の表層をはぎ取られ続けるに似る。その限りにおいて、他にとって自は生きたものとして立ち上がってくる。

気をつけなければならないことは、自我と意志が結託して、何かを成し遂げようとすることである。これは、集中ではなく我執となる。

我執と集中の区別があやふやになっている。それは集中という言葉の定義のあやふやさから来るのだろう。集中と、我欲から来る我執の違いを明らかにせねばならぬだろう。

執着と集中の違いである。集中とは、意志的な作業ではあるが、意志は方向(ベクトル)を選択するだけであって、あくまで葛藤を同時に伴いながらそれから抜け出す、若しくは自我の束縛を構わぬための意志である。
執着においては、意志は我欲・我執と結託し、我の解放を前提とせずに、他を我の世界に取り込もうと、策謀術を尽くす。

この区別がとても難しい。

個人の蘇りは、場の蘇りでもある。まさに、蘇生という言葉が相応しい。レッスンの場は、いのちが蘇生する場である。難しいのは、日常が、いのちをミイラの包帯のように縛り上げていくことを、知らないことである。

レッスンの場も舞台も、いのちが蘇生する、甦る場であること。そしていのち自身がその力をもって自己を語る場でもある。魂の成長が成立する、つまり真我と私が一つになる方向へと歩みだす場でもある。

「立つ」→「立っている感じがするか?」自他が互いにその成立を認め合うことが出来るか。「立っている感じを持てなければ、どんな感じがするか?」自他の眼差しから、見えてくる存在。

「話しかけられた感じがするか?」と問い「話しかけられた感じがしないならば、どんな感じを受けたか?」と答えを求める。

「寝ている感じがするか?」と問い「そうでなければどんな感じがするのか?」ここが出発点であり、到達点の自然に生まれる条件が揃ったということである。(中性面の意味するところか?)

一つ一つの行為(ことば)を、知識に拠って理解・分別するのではなく、からだの実感・からだの内側からの眼差しに照らして見ていく。そこに現れるからだ=ことばの存在と世界。

約束事の世界で私たちは社会的な生を送っている。反社会的な行為も社会の約束事を前提に生まれる行為であろう。そこには真=魂の生活はない。アートはその時代の中に真を見出し表現する作業だろう。

ことばにするのは、多大な困難を伴う。レッスンの実践は、非常にシンプルなものなのだが。
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