FC2ブログ
2020年06月10日 (水) | Edit |
名称未設定 40

『ああ、世界はなんて美しい!』この一言に尽きるのです。
この事実(リアリティ)にまみえるために人は生きているのかも知れません。少なからず私のこれまでの歩みは、この一言のためにあったと、いまは振り返ることができます。

ティク・ナット・ハンとの出会いは、地元の市立図書館の本棚から始まっています。『生けるブッダ、生けるキリスト』ティクナットハン 著、池田久代 訳 春秋社 1996/11/20発行、図書館でなんども借りて読みました。

ブッダとキリストという、比較対立の論点からではなしに、その和解共有の場へと読者を連れて行ってくれる。『ああ、世界はなんて美しい!』その喜びの中へ。

私自身の仕事=レッスンは「からだ」と「ことば」(「意識」と「身体」)の分断と対立をどう超えてゆくか、それがテーマです。私自身の中にも分断と対立が埋め込まれている。その和解のときを保証してくれるのが『ああ、世界はなんて美しい!』と言う体験であり、その体験の地から片足を引き剥がさないことが、生きることであり生きるための戦いでもあります。

ベトナム戦争のさ中、僧侶は寺院にこもって修業を続けていれば、安全と衣食を保証されていた。ハン師は民衆の窮状を知り、仏教は何のためにあるのかを考える。そして禅寺を飛び出して、ベトナム民衆のために救済活動を始める。

ハン師にとっては、信仰とは行動することでありました。寺院に籠ってお経を挙げたり、修業に閉じこもっていることが、仏陀を信仰することではないのです。人々の中に入り込んでその幸せのために、ブッダ(菩薩)として行動することが、信仰であり修行になって行ったのでしょう。

それは、エンゲイジド・ブッディズム(社会に働きかけ行動する仏教)と呼ばれました。逆から言えば、それまでの仏教は、寺院に籠って民衆の救済には知らぬ存ぜずで済まして来ていたのでしょう。平和を希求する活動はやがて内的な分断から個人を救う活動(マインドフルネス瞑想)へと進んで行きました。

『ああ、世界はなんて美しい!』は、自らの中に巣食う分断と対立から、自分や他者を開放する行動=真の修業の中で、大いなる自然(仏陀・キリスト・マホメッド・神・・・)の側から私たちに与えられた、贈り物であり道標(みちしるべ)なのでしょう。

--------
40日目、40回目の Book Cover Challenge 最後が「分断と対立」の話に落ち着くとは思ってもいませんでした。「分断と対立」を乗りこえるには、痛みをを伴います。分断と対立の苦しさから自分たち人間を救済しなければと、私たちの種(元型?集合的無意識?)としての「からだ」=「いのち」は、コロナに助けを求めたのではないかと私は考えています。

少なからず、コロナの経験を幸せに出会うためのマイルストーンと考えて、石っころの姿をしっかりと観て行くべきだと思います。コロナ禍と名付け、殲滅して、それを闇に葬ると言う態度はもうよしましょう。それでは戦争後のPTSDを闇に葬ったことの二の舞でしかない無いでしょう。悲しみ苦しみを闇に封じ込めると言うことは同時に、喜びや楽しみをも心の奥深く=身体の深層に封じ込めることなのです。

『ああ、世界はなんて美しい!』をは身近にあります。それを見る目を育てなければ見えないものですが、ほんとうの幸せを希求して歩み続けるならば、自然とその眼は育ってくることでしょう。

これまでの私たちの安定した生活は、まがい物の幸せを良しとして受け入れて、それ生きることしかできませんでした。これからは自分に正直に、ほんとうの幸せを求めてみませんか。

宮澤賢治はこう言っています。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(農民芸術概論)
「何が幸せかわからないです。本当にどんなに辛いことでも、それが正しい道を進む中の出来事なら、峠の上りも下りもみんな、本当の幸せに近づく一足づつですから」(銀河鉄道の夜)

--------
5/2~6/10の40日間、オンライン上ではありますが、長期にわたりお付き合いいただいた方々に感謝しております。「いいね!」などの反応に励まされてここまでたどり着くことができました。私は「からだとことばといのちのレッスン」の実践が仕事であり、自ら進んで文章を発信することが不得手です。今回は村上洋司さんから、宿題(お題)を頂いたおかげで私の中身を引っ張り出され、ここまで来られました。村上さん、ありがとうございました。

Book Cover Challenge !   ページ リンク №
         
         
         
         

関連記事