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2020年06月03日 (水) | Edit |
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先に(26弾)草野心平さんと中華料理『白龍』の村井旦子さん(オバQ)のことを書いたが、旦子さんのご主人も面白い人だった。

お爺ちゃんと皆から呼ばれていて、名前は忘れてしまったが、戦後やはり親一人子一人、息子と一緒に引き上げてきて、新宿のお店で旦子さんに惚れて、以来お店を手伝いながら夫婦として暮らしていた。

おっとりとしているが、若いころから気性の激しい人だったと聞いていた。お爺ちゃんの研いでくれた店の包丁は切れ味抜群だった。

器用な人で、店の周り、歩道の植え込みや生垣で、草花を見つけてはスケッチブックにクレヨンで写生をしていた。公民館では絵の先生と呼ばれて、地域のおばさんたちに絵を教えていた。

その上、詩吟の先生でもあり、こちらの方は協会などに加盟していて、作品を作り歌いあげていた。半紙に描かれた筆字を見せてもらったことがある。達者な人だったのだ。

お婆ちゃん(村井旦子さん)が度々、おじいちゃんと沖縄旅行に行ったときのことを嬉しそうに話していた。詩吟協会の作家(詩吟の先生)の人たちとみんなで、沖縄旅行に行ったそうである。当地で詩を書きそれをお互いに吟い合い、コンテストをしようと言う試みだったそうだ。

「沖縄に到着して、さっそく詩を書き始めたのに、書けたのはうちのお爺ちゃんだけ!他の協会の人は全く書けなかったのよ。」沖縄戦の名残り、その空気が地に埋もれているのか「ここでは書けない!って他の人たち(詩人)は言ったの。」厳しいものが在ったようだ。

そういえば、お爺ちゃんは戦時中のことを書いた書物を大事にして持っていた。知覧特攻隊の冊子を私に貸してくれたこともあった。もともとは前橋の材木屋の跡取りで、利根川を下って東京の木場まで材木の筏を運んでた話もしてくれた。

何と言っても、あのオバQ、気性の激しいお婆ちゃんを支えて付き添ってきたこと自体、並大抵のことではない。

亡くなる数年前、新宿青梅街道沿いを、お爺ちゃんとお婆ちゃんに付き添って、十二社から東京医大病院まで歩いて行ったことがある。二人が肩を並べて歩くうしろ姿は、神々しく美しかった。真後ろからの日差しが後光のように、二人を包み輝いていた。老いるって素敵なことだな!と思った。

沖縄で、お爺ちゃんだけが詩(詩吟)を書くことができた理由を、もう少し聞いておけば良かったのかな?他の詩人たちが描けなくなった理由も。

まあお爺ちゃんとお婆ちゃんの姿や話に接することができた私には、理由は分からないけど、お爺ちゃんが詩を書けたのは当然のこととして「そうだろうな!」と独り言ちする。

終戦前後、二人とも私には想像もつかないような、並々ならぬ苦労を背負いながら、戦争を越えてここまで激しく激しく生きて来たのだろう。

『沖縄戦記 鉄の暴風』(沖縄タイムス社編)・『人間でなくなる日「沖縄戦住民証言集」』(集英社版)・『沖縄・この武器なき闘い 戦後史の証言』(日本青年出版社)・『みんなみの巌のはてに 沖縄の遺書』(光文社カッパブックス)本棚に並んでいた。

ページを繰ったら、領収書 理科大生協書籍部12SEP 80 が挟まっていた。竹内に出会う前、23歳まだまだ青春のころ。灰谷健次郎さんの小説、沖縄を舞台にした『太陽の子』を繰り返し読んでいたころ。私の中の「悲しみ」が共鳴し、私を運んで行ったのだろう。

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