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2020年06月02日 (火) | Edit |
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親鸞さんが『 善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや 』と言っていたと、歎異抄には書いてある。

「 善人でさえ天国行けると言うのだから、悪人ならなおさらのこと天国への道は確かだぞ~! 」と言うことだ。

言葉の意味に分かりずらいところはない。私の怪しい翻訳など付けなくても、大方の人は原文で十分だろう。ところが、よくよく読んでみると変なことが書いてある。

私訳を読むと。悪人は天国では無くて、地獄に行くのが普通だ。善人で「さえ」と言うのも変だ。善人と言うのは大したことないのかと思わされてしまう。善人よりもっと上の奴がいるのか。善人は天国に行けるくらいに誰よりも立派なはずなのに!悪人が立派だなんてあり得ない!!!

この言葉は近代の仏教者や作家が引用したり、いろいろと解釈していると思う。私も色々な人が解説したものを読んだ気がする。気がすると言うのは、結局どの説明も私にはぴったりこなかったようだ。もっと一生懸命いろいろな人の、解説書を読めば良いかもしれないけれど、あまり気がのらない。だから手元にはこの野間さんの一冊しかない。

この頃ではその分からなさが大切かも知れないと思っている。野間さん自身も、歎異抄を繰り返し読んでいるが、読むたびに新しい発見があると書いている。(読むたびに発見があると言うのは、私の賢治童話の読み方と一緒だ)

でも、それだけではキリが無いだろう、死んでもまだ読んでいろ!と言うことになってしまう。。。そうか死んでしまえば、この言葉の意味が分かるのかもしれない。欲にまみれた現代人(もちろん私も)には、生きているうちにこの言葉を受け入れることが難しい。

でも不思議だ不思議だと、繰り返し首をかしげながらも読み続けるのは在りかもしれない。『 善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや 』を読んで、「ああそうか!その通りだ!」と何の思慮もはさまずに手を打ち首肯できる日が来るかもしれない。

演劇の方では「ことばそのものになり切る」と言うのがある。私自身がその言葉になり切ってしまえば、親鸞さんの言葉が私自身になってしまう。言葉になり切れば「私」という邪魔もの(自意識)は消えて、言葉を通じて私たちも、親鸞さんそのものに成ってしまう。なんの不思議も迷いもなく、その言葉は当然のこととして、自身の中に修められる。誰かに解釈なんてしてもらわなくても、納得できるのだ。

そこまで行くのが途轍もない苦労があるだろう。自意識(自我)は、「私は!」「私は!」を連発して、「私」を『善き人』であると自他に見せようとするのが、その性格だから。『 善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや 』なんて破壊的な言葉は受け入れるわけにはいかないのだ。消去すべきだ!とへそを曲げる。

「カバー文字 親鸞 筆」
『愚禿親鸞』愚(オロ)かな禿(ハゲ)の親鸞。隠すところなくすっぴんで踊り輝いている。潔くて清々しいな!

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