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2020年05月27日 (水) | Edit |
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西新宿淀橋、青梅街道と十二社(ジュウニソウ)通り交差点近くに、「白龍飯店」があった。店主はオバQ(オバケのQ太郎)である。

草野心平は、このオバQから飲屋「火の車」の店舗を借りていた。オバQの言うには、心平は貧乏で短冊に詩を書いて家賃の代わりに持ってきて「これは将来高く売れるから」と嘯いて(うそぶいて)いたそうな。

終戦後間もないころだ。

満州から娘三人を連れて引き揚げてきたオバQ(小母Q?)は、新宿焼け跡のバラックでトマト湯麺と豚角煮の店を始めた。

熟れすぎたトマトを安く仕入れて、豚のスープでくつくつ煮込む。豚バラ(三枚肉)も脂身の低級食材と見られていたので、安く仕入れてスープと角煮を作って店に出す。セロリと胡瓜と白菜の酢醤油&ごま油の漬物も美味かった。

何せ中国大使館仕込みの腕前だ。引き上げで娘三人と食っていかねばならず、戦勝国の中国大使館の賄いに入ったオバQ。戦火にやられた街を歩けば、敗戦日本の食うに食えない貧乏暮らし。

一歩中国大使館に入れば、贅沢三昧の毎日。オバQは調理場で頭角を表し、最後には中国大使本人の朝粥を任されたそうだ。(これは凄いことだろう!)

やがて「白龍」は西新宿に店舗を構え、バブル期にはタクシー運転手が客を案内してくる有名店になった。夜中まで営業していたので、当時の芸能人やテレビ関係者が良く訪れた。

私は近所のアングラ劇場兼稽古場で活動をしていたのだが、舞台稽古などでクタクタヘトヘトに草臥れていても、名物『トマト角煮湯麺』を食べると、スッキリシャッキリ元気が戻った。呑みすぎで荒れた胃が喜ぶ。オバQの魔法、そのパワーと食材を活かす力がすごかった。実は後年、私自身白龍にバイトに入り調理を覚えた。未だに草臥れたときは自分で料理を作る。

西新宿の近く、十二社(ジュウニソウ)通りと方南通りの交差点そばに、藤子不二雄プロダクションがあった。ついでながら近所の床屋はドラマー角田ヒロの実家、その他向かいの文房具屋が俳優の出身だったり。面白い町内会だった。

「白龍」は、藤子不二雄のお気に入りの店だったそうで、よく店に来ていたとオバQが話していた。

実は白龍のオバQがいなければ、漫画のオバQは生まれなかった。本名を村井旦子(のぶこ)という。一目見れば誰にも分かるのだが、実物をお見せできないのが残念だ。小柄だがぶっといドラム缶が歩いているような、2~3頭身体形。唇が分厚く、異形の者と言いたくなるような、、、。要はオバケのQ太郎そのモノの体形と顔の作り、ペンギン姿。

普段はむっつり顔で、厨房に入ったときなどは睨みを利かせて皆に恐れられているが、笑顔の素敵なことったらない!破顔一笑、その人懐っこさが、見るものを幸せにする。

村井旦子は店を構えてから、もう一つの名物白龍餃子を握ってきた。その手と言ったら、小ぶりで分厚く細い線条の皺だらけ(ドラえもんの掌)。けれども赤ん坊の頬っぺたみたいにフワフワの肉感。この手で握った餃子は天下一品だった。西新宿の行列のできる繁盛店、歌舞伎町で夜の仕事を終えた人たちにも愛された店 & オバQ。

藤子不二雄がその姿形に接して、オバケのQ太郎が生まれた。村井旦子さんはオバQのそっくりさんでは無くて、オバQの分身、いやオバQが旦子さんの分身だ⁉ 因みに旦子似のその娘はドラえもんのモデルとなった。

話が横道にそれた。草野心平さんの詩の短冊はどっかに行ってしまったと婆ちゃん(村井旦子さん)が言っていた。「取っとけば良かった!もったいないことをした!」とも。(私が白龍の婆ちゃんと親しくさせてもらったのは、1990年のころ)

cover帯裏には、
日本詩人全集全34巻
第24巻
金子光晴・草野心平
「こがね虫」「餃」。「蛙」「富士山」他
純な反逆の精神を内に秘め果てのない放浪の人生を歌い続けた詩人金子光晴。原始への郷愁にひかれ、無垢な蛙の世界に心の故里を求める草野心平。二家の代表作悉くを収録!
とある。

この中に『ごびらっふの死』が掲載されている。詩人心平さんが書いた、小説というか蛙たちのファンタジー物語りというか。

--------以下『ごびらっふの死』より引用--------
われらは侏羅(じゅら)に生を享け。
羊歯の林や泥の河。
恐竜などに踏まれつつ。
土と水との幾万年。
いまだに強く栄えたり。

半ばは土に息ひそめ。
半ばは天の美を生きて。
星のかんざし陽のキララ。
夜と昼とを歌いたり。
夜と昼とを歌いたり。

ああ七月の満月の。
満潮時はめぐりきぬ。
地球の友ら、いざたちて。
われらが生のよろとびを。
声をかぎりに讃えなん。
--------

私たち現代人の中にもジュラ紀の生が受け継がれている。
その声は、私たちをひとつに繋ぎ響き渡る。

『ごびらっふの死』をスタジオ(アングラ劇場)で舞台に乗せた。
あのころの私は、竹内敏晴の「からだとことばのレッスン」よりも、舞台上演に自分をかけ、行き詰りからの抜け道を探っていたようだ。

私もみんなも必死だった。全力をかけて舞台上演に向かっていた。当時を振り返ることから逃げたくなるほどに、無茶苦茶をしたことばかりを思っていたが、四半世紀を経た今になって振り返ると、「何と!」、人が必死になって前を向いて走り抜けることの美しさを思い出し幸せな気持ちになる。

まだまだ現役なのだが、だいぶ老境に入り始めているような私?

--------『ごびらっふの死』より引用--------
かわはらの月の花。
一つひらき。
また一つひらく。
乳色のもやのなかに。
向い合う月色の花。

眉の月天に。
月の花砂川原に。
月の花。
いくつもの灯になって。
わが燃える胸に映る。
--------
老境に入った「ごびらっふ」に、若い乙女の「るりる」が歌う恋歌。

涙が出る!感謝!

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