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2020年05月24日 (日) | Edit |
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「母にしてもらったこと」「して返したこと」「迷惑かけたこと」。この三つのことを、90㎝四方の襖で仕切られた空間の中で考え続ける。一週間、寝るときの他はひたすら自分の過去の思い出に意識を向ける。幼児期から小学校・中学校・高校・現在に至るまで、自分の裡を見つめ続ける。(内観)

からだをのびのびと動かすことの出来ない狭い空間。寝転がれない広さ。その中で意識を自分の心へ向け続けるのは、かなりきつい修養法である。

(昔の牢獄・座敷牢、からだも心も縛り上げられる。ただし自ら望んでのこと。帰宅を止められることは無い)

間もなく一週間を終えるころだ。私の意識の集中が熟してきたときだと思う。突然、台所で夕食の準備をする母の姿が眼の前に浮かんだ。その過去(小学生のころ)の光景がありありと見える。同時に止めどもなく涙があふれてきた。

これは、あとから言葉になってきたことだが、私はそれまで(22歳くらいのこと)羊水に包まれ、羊膜ごしに世間(世界)を見ていた。その羊膜が破れ破水し、直(じか)に世界に眼差しを向けられるようになったようだ。(山伏の山岳修業と意味が類似)大和郡山駅に向かう商店街、雑踏の光景が、鮮やかに輝いていたのを覚えている。

意識の深層の側から自分の心が裂けて、無意識の世界が露わになる体験とでもいうのか?自我という常識の側からすると、あり得ない、不可解な体験は他にもある。

初めての、3泊4日の坐禅会(接心)の時に、坐っている自分の身体の実感が無くなって、お寺の境内一杯に自分の「からだ」が拡がっている。

演劇の舞台に立てば、象の足が目の前で電話のダイアルを回していたり。

まだまだあるが共通なことは、集中度がある地点=自我の限界を越えたときにやって来る現象だ。手軽にひょいひょいと出来ることではない。自尊心や自己正当化と言うような、自分の存在が脅かされる地点に立ち、引込むことなく無心に前を向いて自分を投げかける。

これは竹内敏晴の「からだとことばのレッスン」から学んだ「からだ」への信頼があってのことだろう。

その時々の体験が今では、私のマイルストーンになっている。後戻りのきかない目印だが。

奥付に、昭和57年4月20日 第1版第5刷発行 とある。1982年のこと。内観研究所長の吉本伊信先生に直接指導を受けたのが今では宝物だ。当時はとても怖い思いもしたが(笑)

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