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2020年05月19日 (火) | Edit |
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竹内演劇研究所にいたころ『仮面のレッスン』をやった。

リンゴ箱サイズの大きな段ボール二箱分に、薄紙にくるんだ「面」(仮面)がぎっしり詰められていた。研究所のメンバーが美術家の指導を受けて制作したものがほとんどだ。

笑いの面・悲しみの面・氷の女・スイスバーゼル祭の仮面・ひょっとこ・おかめ・夜店の狐面、更に、中性の面(ニュートラルのマスク)等々。人間の情念を様々にデフォルメした「面」が、段ボール箱を開くのをためらうほどに、ぎっしりと仕舞われていた。

『 笑いの面 』というのがあった。口角が耳元まで吊り上がり、大きく開け放たれた口。膨らんだ頬骨と、鷲鼻にギョロリと剥いた目。脂下がった眉。幅広の大きな赤ら顔。その剥きだしの笑い顔は狂気に近い。
日本の鬼の面などもそうだが、そこに彫り込まれた喜びや悲しみ・怒りなどの情念には、常軌を逸する「えげつなさ」がある。だから「面」を見るもの触れるのも、そこに恐れを呼び覚ます。

まるで悪魔に憑りつかれたような表情と動作とでも言えばよいのだろうか、『笑いの面』をかぶると、私は消えて「笑い」自体が私を乗っ取り支配する。その情念の激しさに呑み込まれないためには息を深くし、嵐に揉まれる樹木のようにしっかりと足を大地に踏ん張り、激しい雨風を受けながら、地を踏み宙を舞うことが必要だ。

ある人は自分の実体感(日常的自我の努力)を放棄することが出来ず、突然やって来て内側から自分を食い破ろうとする「笑い」(情念)の激しさに抵抗した。日常的な自我のチカラなど、筋トレしているからと言ってもたかが知れている。「笑い」によって自己を奪われまいとする抵抗。その葛藤(緊張)の苦しさに、面を自ら剥ぎ取り脱ぎ捨てた人がいた。

私はと言えば、面を着けて踊り舞い、跳んだり跳ねたり廻ったり、宙を舞うかと思えば、原始的なエロティックな行動(演技)に及んだり。舞台上の仲間や観客を巻き込んで、「笑い」の世界へと、その場の全員を巻き込んで行った。そこには全身全霊を懸けた、魂の自由があった。
このような情念の憑依に対抗するには、自我の支配のもとで心身に緊張努力を強いても何の意味もない。

私という既存の限定を放棄して、「笑い」ならば「笑い」になり切ることが大切だ。「笑い」は「私」であり「私」が「笑い」であるとき、笑いと私の区別がなくなる。その区別無きところで、「笑い」を「私」として生きることが可能になる。舞い踊るのだ。

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室町時代末期(西暦1500年前後?)に世阿弥によて編纂された能楽伝書。竹内演劇研究所で仮面のレッスンに参加していた時、仮面劇などにも興味を持った。その参考にと読んだのだと思う。能の表現の根本は、怨霊の憑依、情念・怨念の昇華だろう。闇深い現代にこそ、求められる技であろうと思うのだが。風姿花伝、風の姿を花に伝う。花とは魂である、風もまた。

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