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2020年05月19日 (火) | Edit |
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野口体操は自分=私の中に在る。いつの間にか私と野口体操が一体化してしまったようだ。久しぶりにこの本を手に取り、ふとそんな考えが浮かんできた。それは野口体操に堪能であるとか、誰より野口体操に詳しいということではない。

そもそも野口体操という言葉が怪しい。ふつうには、体育・体操の先生をしていた「野口」三千三さんが考えた「体操」だから、野口さんの体操で、「野口体操」。そう考えて当然だ。

ところがこの「体操」という言葉が落とし穴になってしまう。観るのでもやるのでも良いが、実際の野口教室風景を眺めてみると「このどこが体操なのだ!」と言いたくなる。ぶらぶら・ぬらぬら・ぐにゃぐにゃ・ゆらゆら・だらだら・・・ふわふわ・さらさら・するする・・・。切りが無いが、粘液質や流体・気体などが見せる、ランダムで得体の知れない状態を表す擬態語が、眼の前に実際にうごめいている。皆、こんな動きにはまっているのだ。

私たちが一般に「体操」と言って行っている動作には、全く当てはまらない。普通の体操が型どおりな(動作の決まりがある)のに、野口体操はたこ踊り、こんにゃく踊り、酔っぱらい踊り、、、。体操というよりも踊りという方が、当体を得ていると言えそうです。「野口踊り」「野口舞い」、、やっぱり変ですね(笑)

「体操」という言葉には、健康・鍛錬・発達・教育・・・などなど、旧来の、こうあるべきだという意味付けが、べたべたと張り付いてしまっている。かなりミッシリと堅苦しく、体操とはこうあるべきものだという定義が無自覚・無意識・無検証に共有されてしまっている。そのためこの言葉を使うだけで、非常に限定された世界に引っ張られてしまう。

どうしたら良いかというと、野口体操を「野口」と「体操」に分けて読まないこと。呼ばないこと。切り離すことの出来ない、ひとつの単語として、「野口体操」と読むことだと思います。野口三千三の世界観・身体観・哲学を合わせて「野口体操」と名札を付ける。

竹内敏晴の言葉のレッスンでは、「野口」と「体操」は別々の言葉であって、まとめてひとつに読んだ「野口体操」なんていう言葉は無い!と一喝されそうですが、ここでは「絶対矛盾の自己同一性」という西田幾多郎の言葉を、意味を切り刻んで理解しようとしては駄目だという、ある人物の言に従いましょう。(笑)

始めに戻りますが、野口体操が分かるというのは、自分と野口体操が一体となる体験を経たことがあるか否かで計るしかない。自分と野口体操がひとつになってしまえば、私とあなたが無くなるから、当然その時は「野口体操」という名前も消失する。自分が野口体操であるから自分の名称(自我意識・実体感)も消失する。

あれ!なんだ!「野口体操」は本当の意味での「禅」そのものでは無いか!「野口原初生命禅」というのがぴったりかもしれない。

「野口体操」の名札が張られた袋の中に壮大緻密、底抜けの独自(天上天下唯我独尊)世界が包み込まれれている。

『原初生命体としての人間』1972年9月10日 第一刷発行・1978年9月5日 第4刷発行。この他に『からだに貞く』『おもさに貞く』の二冊。野口先生の著作はこの三冊のみです。それが私にはありがたい。あれこれと読まなくても、この三冊で真髄が味わえる書物。懐にも優しいし、一生かけて繰り返し読める。かなり難解だけど、噛めば噛むほどに妙味を味わえる。

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