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2020年05月19日 (火) | Edit |
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引用が少々長くなるがこんな時には許されるだろう。言わずと知れた竹内師匠の『ことばが劈(ひら)かれるとき』(思想の科学社)。奥付を見ると 1975年8月25日 第一版第一刷発行・1980年5月5日 第一版第十四刷発行・1980年10月20日 第二版第一刷発行とある。驚くほどに売れたのだろう。たくさんの人に印象を残したと言うことだ。
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(「終わりに」より引用)
最後に、書きことぼも含めて、ことばについて忘れられぬ思い出を一つ述べたい。それは「語る」ということについてである。
折口信夫によれば、「かたる」とは「うたう」あるいは「うつたう」と対比されることばであると言う。

「相手の魂をこちらにかぶれさせる、感染させるといふことなのです。親鸞上人の遺文を見ますと、自分が法然にかたらはれまつつたといやうに書いてあります。つまり法然上人に騙されて、私は浄土信仰に入つたのだけれど、是が却つて幸福だ(中略)と、斯ういふことです」(伝承文芸論)。

私たちは、このような力を、ことばから失いかけている。私たちは「語る」力 を持たねばならない。それがことばのいのちなのだ。

ぶどうの会時代、民話劇を上演するにあたって、私は知り合いの中学校の教師Tさんを頼って新潟県の上越国境近くの村を訪ねたことがある。昔話は現在もどのくらい話されているか、どのようにおもしろいと思うか、というようなことを聞いて廻ったわけだ。

小さい子ともたちはほとんど昔話なんて聞いたことはない、という。四十歳代から上の人たちは、子どものときに聞いたことがあるが、よく覚えてもいねえな、今は語れる人は、いねんでねえか、というようなことであった。二日ばかり無駄足をふんでくたびれて、教員宿舎へもどってきた。

食事しながら、Tさんの仲間にその報告をしていたところが、炊事をしてくれていた七十歳ばかりになる婆さんが、ひょいとロを出して、あんた方はそういう話が好きなのかと言う。

Tさんが意いて、婆さん知ってるかとたずねたところが、ああ、いくらか知っている。それならと言うとたちどころに、七つ、八つ話してくれた。帰ってから関敬吾氏に話したら、そういう話し方をするならまず七十か八十は知ってるはずだと即座に断言された。それだけ話せる人はやはり部落にだれときまっていて、その村のいわば語り部だったはずなのに、もうだれも知らなくなっていたのだ。

「まっとう山のむじな」 という話があった。むじなが、 ひとをだまして困るというので、ある猟師が、おれが退治してくれべぇ、と仕度をして出かけた。かみさんが気づかうと、いや、だいじょうぶだ、夕方には帰ってくるからと鉄砲持って出ていった。そうして山でむじなと一騎打ちになったのだが、むじなは石かなんかに化けて山の上から落ちてきて、漁師を殺してしまった。それから、その猟師の着物を着込んで、鉄砲を持って里へ下りていった。一方、かみさんは、いつ親爺が帰ってくるか、帰ってくるかと待っているが、なかなか帰ってこない。夕方になって風が出てきた。もしや親爺は、むじなに食われてしまったんじゃなかろうかと、いても立ってもいられないとこ ろへ、「ドンドンドンドン!」、戸を叩く音がする。そして、「おい、かか、今帰ったど」。

このときの婆さんの姿が私は忘れられない。べたんと坐ったまんまで、ずうっとしゃべっていただけなのだけれども、この瞬間背丈がずうっと伸びたような気がした。本当に猟師の親爺がそこに突っ立って、があんとどなったようなからだが、ずしんとそこに見えた。とたんに、ふうっと婆さんのからだが変わって、「ハイ、ハイ」と、かみさんのからだになっている。

で、かみさん、大喜びで、「まあ、よく帰ってきた」。ガラガラと戸を開ける。手を、戸に当てて力を久れて開けるようにぐいと動かした。「まあ、よく無事に帰ってきた。むじなは、仕留めたかね」「ああ、みごとにやっつけた」と言って入ってくる。それを、さあさあといろりのそばへ寄せてお膳を出して、さあ一杯と注ごうとしてひょいと、かかが親爺の顔を見て、どきんとした。「うちのとっさは、左の目がめっかちのはずだに、このとっさは右の目がめっかちだ」。これは、むじながうちのとっさに化けてきたに違いないと思うと、ガタガタ、ガタガタ、いても立ってもいられない。ともかく酒を飲ませて、ねかしてしまって、思い切って、玄翁持ってきてがあんとぶっ叩いて、殺してしまった。殺してしまえばむじなは本性を現わすというから、というので、しっぽは出てこないか、顔は変わらないかとじっと見ているけれどもなんにも変わらない。こらあ、ひょっとしたら、ほんとうに自分のとっさを叩き殺したんじゃなかろうかと思って夜中ふるえているところへにわとりが鳴いて、まっとう山の向こう側から朝日が昇った。窓から朝日がてかてかてかと差してきて、その光が死体に当たるとみるまに親爺が変わって、むじなになった。

で、「どっとはらい」と、こういう話である。

そのべたあんと坐っていた婆さんが、どういう話しぶりをしたか、と言うと、私はほとんど覚えていたい。落語家のようにみごとに仕方語をしたとも思えない。ただ、ひたすら私は、鉄砲打ちやかかの姿を目の前に見ていただけだった。「おい、かか、今帰ったど」と、ばっと猟師の親爺になる。なったと思った瞬間に、はっともうかかにもどって、ふっと戸の方をふり向く、立ち上がって、「ハイ、ハイハイ」と出て行く。婆さんは坐ったまんまで、立ったわけでもなんでもないはずだが、そういうふうにしか、私の記憶の中には、残っていない。その瞬間に、まったくその人は変わってしまうそのみごとさといったらない。

話をするということは、こういうことなんだな、とあとになればなるほどシンにこたえて感服の度合が深くなってくる。

折口信夫のことばを読むたびに、私はこの婆さんを思い出す。この婆さんこそ「語り」の権化であっただろう。いや、かつて、日本の村々には、このような「語り部」が、いたるところにいたのだ。その力はどこにいったか。死んだはずはない、とひそかに、私は思うのである。
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「竹内さん(演出)の舞台に立つと(戯曲の)光景がホントに見えてくるんだよね」竹内演劇研究所の俳優さんが言っていた。『田中正造』の舞台であれば、嵐と洪水で水に浸かった谷中村の光景が舞台空間に広がって来る。

竹内敏晴はこの引用文に描かれた「からだ」と「ことば」の可能性=その力の復活を願っていた。同時にそれを成り立たせてもいた。私も、そこのところはぶれずに歩いてきたと思う。まだまだ道半ばだが。

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