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2019年09月24日 (火) | Edit |
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坐蒲(ざふ)の工夫

坐禅と言えば座蒲(ざふ)である。坐を組むときに、お尻の下に丸い座蒲団を敷きこむ。この高さが大切であるが、そこのところがあまり語られていないように思う。

地べたに直接、安坐(結跏趺坐・半跏趺坐・胡坐)をすると、骨盤が後ろに傾く。骨盤の盤は「器」だ。深皿やサラダボウルを考えると良いだろう。このボウルの上に、内臓が盛られている。上半身や腕・頭もバランスよく盛り付けられているのだ。

このボウルが傾くと、その上に載せた内臓は零(こぼ)れ落ちてしまう。落ちては大変、姿勢をキープしようと腰・背中や首に力が入る。(実際には全身に)

この力=筋肉の緊張は、初めての人はもちろん、坐を組みなれているはずの僧侶やヨガ教師にも多い。
姿勢を正そうと、背中を固めている。長年の訓練でそれが常態になってしまって、緊張していることを意識できなくなってしまっている。だから自身は緊張して身体を固めているという意識はない。

見た目には、堂塔のようにしっかりと組まれた姿勢の安定感や、構造物としての美しさはある。けれども本来坐の求める、ゆったりとか大らかさという印象からは程遠い。世界への開けも見えない。むしろ良くできた置物である。生き物という感じが薄い。外的な印象はクッキリと明快だが、内側から発散してくる温もりや透明感がない。

腰や背中を固めて姿勢を正す。つまり心身の必死の緊張努力によって坐を組むことで、坐禅は成されるのだという勘違いが世間にまかり通っているのだろう。仏さんは威張らない=威を張ることはしない。

10㎝強の厚さに毛布をたたみ、お尻(座骨)の下に当てがってみてほしい。柔らかくてつぶれてしまう素材の物では意味がない。鏡餅型の市販の座蒲もお勧めできない。地面からお尻への高さが、重要である。個人差があり、自分でちょうど良い高さを選べるようにならなければ、どんなに格好のよい座蒲を購入したところで意味がない。

私が初めて坐禅を体験した北鎌倉円覚寺居士林の一間(ひとま)には、沢山の使い古した座蒲が積み上げてあった(20年前のこと)。もちろん新品もあったが、同一規格のサイズでは、自分の坐に合った高さにはならない。直径30㎝、使い古してホットケーキのようにペチャンコになった丸い座蒲を何枚も、お尻の下に重ねたものである。その高さ30㎝。

工夫して、ちょうどよい高さを見つけて坐ると、腰の周りの硬さがとれて、腰や股関節が溶けてしまったようになる。背筋は力みなく自然に天地に伸び上がる。当人、またそれを見る人にとっても、大変心地の良い姿勢となる。「嫋やか」(たおやか)とはこんな姿を言うのだろうか。優しく柔らかく力強い。力み(緊張)があっては、このような美しさを見ることは無い。見惚れてしまう。微笑ましい。

少しく詳細すると、腰から背骨の線と腿から膝への線は、股関節で交わる。この角度、仙骨と大腿骨の為す角度は、力で強制しなければ、90度以上になってしまう。股関節周りの作りが邪魔をしてしまうので、直接床の上に安坐して骨盤を水平にするには、腰(腹)を前に突き出す緊張(力)が必要になる。

座蒲を座骨の下に当てがって腰を持ち上げると、膝‐股関節-仙骨(背骨)の角度が90度以上のままで、仙骨が地面に垂直に立つので、その角度を筋力で90度に押し曲げる必要はなくなり、股関節周りの緊張が緩むのである。

さらに両膝と座骨の三点を土台として骨盤を支えることになり、下半身が三脚のように安定する。(じつはこれは、舞台の大道具を手作りしていた経験が役に立っている。材木をどう組んだ時に、舞台装置が安定して設置できるかを、実際に勉強していたわけである。)力みが取れて重心が下半身に降りる。股関節で締め付けられることなく、呼吸(腹圧)の変化が膝や足先へと深く伝搬する。

坐禅横姿と角度-コピー2


骨盤をどの位の高さに持ち上げたときに坐が安定するかは、感覚的にたいへん微妙なところである。逆からいえば、この微妙さを無視してしまうと、坐が力ずくで粗雑なものになってしまう。本来、坐禅や瞑想とは身体の感性の細やかさを養い、慈悲の深さを識ろうとするものであろう。

座蒲の高さが、坐の姿勢にどれだけ影響を及ぼすかを意識できることが、身体への集中力の高まり、或いは深まりに関係している。坐に関わる人には、ここのところをもう少し大切にして欲しいと、私は常々思っている。

自身にとって座蒲の適度な高さ、つまり足腰の坐りの良さ、その無理なく楽な感じが分かってくると、まず自然と腹の底まで息が降りるのが分かる。姿勢を支えるのは息の力による。天地を貫く息の流れに姿勢を乗せてやれば、自然と姿勢が伸び伸びとしてくる。股関節周りに常駐している筋緊張は胴体自体の重さで圧し潰され、僅かずつではあるが緊張から解放され、座蒲の高さも追々低いもので済むようになって行く。(私自身初めて坐を組んだ時、座蒲の高さ30㎝が、今では5㎝程度の高さがあれば、楽に坐れるようになった)

禅は苦行の末に悟りを開くと思い込まれていないか!苦行が大切ではない。その苦の元を取り去るのが禅であるのだから。苦というのは意識の勘違い、しがみ付きである。目的の達成のためには苦労しなければならないという発想は、大きな勘違いである。悟りは、仏(=悟り)の促しによって成立する。自助努力には依らない。集中努力は自我の支配を離れるためにのみ必要とされる。

「からだ」の合理を識ることなく、意識(自我)が、力づくの理屈を身体に押し付けるところに、苦しみが生まれる。「坐」は気持ちよく心地よい。心も身体も「いのち」に委ねる行いである。禅宗の道元さんは坐禅は『安楽の法門』と述べている。安らかで楽なのである。

坐禅に限らず、ヨガやマインドフルネス、瞑想など、坐を組む人々と、その機会が増えてきているように思う。心身の静けさや安定を求めるならば、ぜひとも座蒲(ざふ)の工夫を試してほしいものだ。

いくら知恵を凝らして工夫したところで、土台が出来ていなければ、その上に乗っかるものは歪みや過ちを持たざるを得ない。成果を急ぐより、根に帰って手入れをすることが大切なように私は思っている。

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深酒をして明け方に目が覚める。坐禅をして息に注意を凝らす。だらだらと酒精(アルコール)を含んだ汗が滴る。酒臭い!ワークショップ二日目の朝、3時間後にはレッスン開始である。酒を抜いて酔いを醒まさなければならない。
前夜グダグダに酔っ払って二日酔い、アルコール臭をまき散らし頭痛に顔をしかめながら指導するという訳には行かない。だから普段より必死になって坐禅の呼吸をする。1時間ほど必死に坐を組み、ガマの油の蛙のごとく酒でべた付く汗を流し、シャワーを浴びてスッキリ。朝飯に向かう。
20年以上前のこと。あの頃は随分荒っぽいことをやったものだ。もうあんな真似はできないが、坐禅には随分とお世話になった。
日本発の身体技法として坐禅に優るものは無いと思う。私は長年、日本語表現の勉強をしてきたのだが「ことば」を話すには、日本文化の中に息づく身体的なアプローチを学ばねばならない。
私の場合、坐禅への入り口は不純であるが、以来何かと「からだ」を識る手がかりを、坐禅が教えてくれている。私は禅宗の信者ではない。一人勝手の自己流「禅」である。だから坐禅が自由で楽しいのかも知れない。(せとじま)