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2019年02月09日 (土) | Edit |
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ワークショップでは、宮澤賢治さんの書いた物語りを、資料(台本・話材)として利用することが多い。

『 鹿踊りのはじまり 』『 どんぐりと山猫 』『 セロ弾きのゴーシュ 』『 注文の多い料理店 』『 狼森と笊森、盗森 』『 雪渡り 』『 水仙月の四日 』『 かしわばやしの夜 』『 ひのきとひなげし 』『 夜だかの星 』『 銀河鉄道の夜 』『 虔十公園林 』・・・。ざっと思い浮かぶところで、こんなにある。

レッスンの場では、これらを声に出して読むのだ。すると不思議なことに、これらの物語りの内容=世界が、その場に立ち上がってくる。

私はその面白さ=不思議さに憑りつかれたように、賢治さんの童話を何度もなんども、声に出して読むことを繰り返している。

「 そこらがまだまるっきり、丈高い草や黒い林のままだったとき 嘉十(カジュウ)はおじいさんたちと一緒に、北上川の東から移ってきて、小さな畑をひらいて、粟(アワ)や稗を作っていました。あるとき嘉十は栗の木から落ちて、少し左の膝を悪くしました。そんな時、みんなはいつでも、西の山の中の湯の湧くとこへ行って、小屋を架けて泊って治すのでした。天気の良い日に嘉十も出かけて行きました。」(『 鹿踊りのはじまり 』より)

こんな文章を、ワークショップの参加者が、みんなに向かって声を出して語っていく。するとそこに北上の山の中の光景が浮かび上がって来る。語り手も聞き手も一緒に、現実の時空間を離れて、眼の前の物語の世界の中での出来事を、実際に体験していくのです。

嘉十が空き地(広場)に置いていった、ひと欠片(カケラ)の栃団子をめぐって、鹿どもが、遊び・唄い・踊り・はんの木と太陽に祈りをささげる。そんな愉快とも荘厳ともいえるような光景との出会いを、語り手や聞き手は、嘉十や鹿になって、共に体験することが出来るのです。

賢治さんの文章の凄さはこの辺りにあります。賢治さんの物語りでは、物語の登場者としての、人物や動物の交流の他に、その背景となる自然の光景として、木々や草、岩石鉱物さえもが、生き物(登場者)として描かれているのです。

「風がどうと吹いてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました。」(『注文の多い料理店』より)これらの「どう」・「ざわざわ」・「かさかさ」・「ごとんごとん」、これらは声に出して読むとき、擬態語ではありません。森のいのちが語る言葉(声)として、それを聞く者の心(=からだ)に迫り、内心に震えを起こします。賢治童話の中では、登場者が生きて活動するのと同じように、背景も息づいています。

ふつうの小説では、それぞれの場の雰囲気が、背景(地の文)として書きこまれていますが、それは固定したものです。背景自体が登場人物と対等に物申すようでは、小説にはならないのかも知れません。

また、背景が精密・緻密になりすぎると、内容となる出来事の進行が、背景の中に埋もれてしまいます。ふつうの小説は、声にして語ることよりも、目で読むほうに重きを置き、背景は、主人公の行動や心理を浮かび上がらせるためのバックスクリーン(黒幕・白幕)なのでしょう。

賢治作品を普通の小説のように黙読で読破しようとすると、非常に読みづらいし、訳が分からない。眼で読んで黙読すると、その背景のたてる声や色彩の鮮やかさが、立ち上がってこないのです。

『 銀河鉄道の夜 』など、私は小学生のころから、なんども読んでいるのですが、黙読をしていると眠気が襲ってきて、途中でページを閉じて居眠りを繰り返し、完全読破はなかなかできませんでした。

声に出して読むことの面白さが、もう一つあります。自分では普段意識していなない、心の深み、心の奥の領域(感情やイメージ世界)へと連れて行ってもらえるのです。

私たちの日常使っている言葉は、意識と出来事が一意対応です。黙読で、意識(眼)で文章を追っていくときには、言葉とイメージは、私自身の意識(=常識)の範囲内に収まります。

逆から言えば、読み手が文章の側から追い込まれたり、揺さぶられたり、裏切られたりは、小説ではそう簡単には成り立たない。そこは作者(小説家・作家)が、物語りの全編のなかで、工夫して読者の心を引き込んでいくのでしょう。

ところが、声に出して読むというのは、自分の声や他人の声という、生モノを通して、物語と出会うのです。その不安定さゆえに、自分の常識の中に文章を収めて、その言葉を鑑賞するということが出来ない。いきなり自分の実感や常識が打ち破られたところから始まるのが物語り(朗読)です。

打ち砕かれて、心に隙が空き、そこから心とからだの奥に向かって、言葉が飛び込んでくる。その不意打ちを受けて、それを受け取った一人一人の心の奥底から、物語が浮かび上がってくるのです。

ふだんの理解のレベルではなくて、意識下に埋もれているイメージが噴き出して来て物語を彩り、架空の世界の中で、登場者の行動を進展させていく。そのひと時を仲間と共にすることで、物語りにおいては非意識的ないのちの共有が成立するのです。

このような読み方に耐え得る本(物語り)を、私は他に知りません。そこが宮澤賢治作品の類例を見ない、特徴かもしれません。といっても彼の書く文章には、明治時代の歌舞伎や落語の語り口などに、大きな影響を受けているようではありますが。

物語りは、個人の心身の奥底から響きだして来る「言葉」によって成立します。レッスンでは、発声や朗読の技法を学ぶことはありません。むしろ意識的に身に付けた表現の方法(=心身の緊張)を取っ払って、自身の奥底から他者へ向かって表現される「いのち」の姿(個性・真の自分らしさ)を露わにすることを求めます。

「いのち」とか、ユングの言葉では『集合的無意識』などと、ちょっと難しい言葉を使わなければ説明しづらいのですが、要は、自我の仮想する自己を超えたところで、人と人との繋がりやイメージの共有を成立させるのが、『ものがたり』(朗読)の目指すところなのです。

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ほんとうに私的に、ワタシ的に朗読と言うことをやってきました。だから一般化できないようです。こんなことやっている人とお目にかかったことが無い。朗読というカテゴリーにも入れて貰えないかも知れないし、入れて貰う必要も感じない。『 ものがたり 』って、ともかく楽しくてたまらない。きっと子供のころの魂が、私の中で物語に飢えて、いまだに繰り返しそれを求めているのかもしれない。ワタシ的朗読の術、みつる式「ものがたり」術とでもしようかな?(瀬戸嶋 充 ばん)

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ワークショップのご案内は人間と演劇研究所ホームページをご覧ください。



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