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2019年02月01日 (金) | Edit |
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からだの中のブラックホールは、無自覚な筋肉の継続的緊張によって成り立っている。拳を「ぎゅっ!」と、握りしめ続けているのと同じだ。拳ならば疲れたら力を抜いて開けばよいが、ブラックホール(常態化・固定化・無感覚化・無自覚化した筋緊張)は緊張を継続する必要がある。そのためには、エネルギーが必要だ。先に「便秘」から解放された女性の例を引いたが、彼女は15年間にわたり、からだの中で拳を握りしめ続けていたことになる。膨大なエネルギーを注いでいたのだ。

ブラックホールの在り様はじつは様々である。股関節をギュッとひきしめ続けている人。骨盤の中身を固めている人、背中にうっすらと膏薬を貼るように、緊張を背負っている人。首を肩口に埋めるように固めている人。脇を絞めっぱなしにしている人。首の後ろ筋を固めて顎をあげている人。胸(胸郭)を張って持ち上げて固めている人。足首をひきしめ続けている人。。。書き出せばキリがない。共通していることは、それらの緊張を当人が意識していない。気づいていないことである。

もとを質せば、当人が過去において、その時の状況の中で自分で身に付けた緊張=姿勢なのだろうが、無自覚になるところまで、それを身に負ってしまっている。便秘の女性(こちらを参照)の場合には葬儀を立派にやり通さなければならないため、極度に身を固めた。その他にも、姿勢を良くしようと努力した結果、背中に緊張を背負ってしまい、その緊張が邪魔をして、かえって背中が曲がってしまった人もいる。10代に足首を痛めてしまい、それをかばう形の緊張が、中年になっても残存して、動きを不自由にしているひと。若いころに整体の指導を受け、以来からだのバランスを崩してしまっている(からだへの操作に対する我慢=継続的緊張の結果として)。。。

これもきりがないが、往々にして外から、あるいは他者や社会からの、身体や態度に関する指示を、本心では嫌々ながらも「我慢」して身に付けた緊張である場合が多いように思う。「我慢」とは自己の感性(個性的な価値観)を無視して、自己に強制する「緊張」である。

簡単に言えば「嫌だ!」と言いたいところを、押し殺して=身を固めて、我慢した結果である。

先日ワークショップに来てくれた女性からメールが届いた。自分は人に嫌だと言えないタイプなのだが、レッスンに参加した次の日に、なぜか友人に「NO」と言えた。これでもう関係が終わるかと思ったが、相手と話ができて、お互いの理解が深まった。と書いてあった。

レッスンの方から言えば、からだのチカラを抜くとは、我慢の蓋(緊張)を外すことなのだから、「いやだ!」という言葉が、飛び出すことはあるだろう。けれども私が気になったのはそのことではない。

「いやだ!」とういうのは相手の「YES!」に「NO!」と言うことである。お互いがその時の話題をはさんで、立場を異にするのである。相容れない私と相手が立ち上がってくる。そこにはお互いの立場を理解する必要が生まれてくる。対話が必要になるのだ。

「嫌だ!」と言わなければお互いが「YES!」の前提に立つことになる。二人してYESなのだから、相互理解など必要が無い。つまり「対話」が必要ないのだ!異なる価値観や意見を持つ同士だからこそ、対話が生まれる。必要となる。

私自身、このことに気がついて、ちょっと茫然としてしまった。以前『NOと言えない日本人』というのが話題になった。ということは、「嫌だ!」と言えない日本人に、そもそも「対話」は成り立たないのだ。

これは江戸時代300年の長期にわたる徳川家支配の中で、日本人の意識の中に刷り込まれた態度なのかもしれない。企業や役所や社会組織の中では、それは「駄目だ!」「違う!」「それが良い!」「そうするべきだ!」という判断・評価はするが、「そんなことをするのはイヤだ!」とは、言わないのではないか。「いや!」と言ったとたんに、私個人が、組織に対して表れてしまう。組織の中の意見というのは、個人の感性に蓋をして、徳川さん(上司・監督者・目上の者・権威者)の意見に照らして実行の良否、価値の有無を判断する。

結局、組織の重役であっても、「嫌だ!」は言ってこなかった人たちだ。「嫌だ!」をいえば、個人としての自分を露わにしてしまう。それは組織と対立する位置に、私個人を置くこととなる。私個人を露わにしたとたん、組織のメンバーではなくなるのだ。

部下を飲み会に誘ったら「パワハラ」で訴えられたという話を、先日、組織の長にあたる人から聞いた。上司はそんなつもりもないし、周りの人からはどうみてもパワハラとは言えないような、出来事だったという。

若い部下の人は、飲み会が「嫌!」だったんだろうなと、私は想像した。安定した企業に就職するために小中高大学とそれなりの成績を納め、企業内に自分のポジションを獲得する。その間に彼女は「イヤだ!」と言葉にしたことが在っただろうか?

「あんたみたいな教師の言うこと聞いてられるか、顔見るのも嫌だ!」「こんなつまらん勉強をしてられるか。学校なんか嫌だ!」、「嫌だ!」を口にすることは、個人で組織と立ち向かうことだ。孤独であり恐怖でもある。世間の引いたレールや、YESを共有することで成り立っている組織から飛び出す。居場所を失い落ちこぼれることになるのだ。

もちろん友人たちの輪からも飛び出さざるを得ない。学生時代の友人関係も「嫌だ!」を基本にしてはいない。若い人たちは、大人とは違う価値観の元に参集しているのだろうが、その土台は共有される価値観への「YES!」である。

「飲み会なんかつまらないからイヤだ!」と言えれば済んだところを、彼女はそれが言えない。そこで自分が飲み会に参加したくないことの正当性を、「パワハラ」の論法を利用して証明する。欠席の理由を自他に納得させるために。

「嫌だ!」は個人的、生理的ともいえる。本来は自分にとって理由など無い。理由を説明して証明したところで、本当の解決にはならない。(最近、自分の夢の実現のため大手企業を退職した若者に、「飲み会」はどうだった?と尋ねたら「つまらなかった」と一言。上司の人は飲み会が詰まらないものとは、全く考えもしないのかもしれない。飲み会は「嫌」か「嫌でないか」を言う前に、YESを共有するためには、必要不可欠なものかもしれない?)

おそらく解決は、誰かが彼女の思いをそれが否定的な考えだとしても、共感を持って聞きとめてあげることだろう。そして対話の道を開くことが必要なのだろう。ところが、彼女の周りにはそれを受け留めてくれる人は、おそらく誰もいないだろう。上司も同僚も組織内の人たちはみな、「嫌だ!」を言わずに生きて来てしまった人たちなのだろうから。優等生になるための第一の条件は「嫌だ!」を言わないことなのだから。自己をむき出しにした、個人と個人の真っ向からの対話を経験してきていない人たちだから。

話が、激しく蛇行してしまったが、我慢(緊張)が降り積もると。それを解放しようとして、からだは様々に不快なサインを意識に送る。それを無視し続ければ、からだの内部にブラックホールが出来上がる。都合の良いことに、筋緊張は無感覚・無自覚なものとなる。意識は苦しさを闇(ブラックホール)に閉じ込めて、そ知らぬふりをする。『無明』という。

けれども「からだ」は、「いのち」は、生きることを願う。ブラックホールを解消しなければ苦しくてたまらない。そのために「いのち」は、ブラックホールを解消しようと意識にうったえる。ブラックホール自体は邪悪でも何でもない。その存在を認めて、ブラックホールが去るための道を空けてあげれば良い。それは身体の中に無自覚に常駐化した筋緊張でしかない。ブラックホールもからだの中に、居たくているわけでは無い。

自我がブラックホールの消え去ろうとするのを、無理やり抑え込んでいるのだ。「ハラハラ」(ハラスメントをハラスメントに利用する人をそう呼ぶそうだ)をする根には、自己のいのちの解放を願う働きが、渦巻いているのではないだろうか。ただし彼・彼女らは、その道を知らずに、論理(自我の働き)に訴えてしまう。誰か彼らのこころの奥底からの「嫌だ!」を受け留めてやれないものだろうか?

蓋(緊張)が取れれば、個性の花はいのちの風を受け、存分にのびのびと咲き誇る。ブラックホールに費やすエネルギーが生命力の解放へと向けられ、その人は輝きを増す!(それは劇空間の中、非日常の場でしか成り立たないかも知れないが、根源的な「いのち」の解放を体験することで、そのような非日常の場を離れても、個人のもつ個性は生き生きと日常の場を彩ることになるだろう)

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沖縄の人たちが、日本の国に「嫌だ!」を言っている。「嫌だ!」は日本人にとってタブーなのか?国は、常軌を逸して力ずくで沖縄の人たちの「嫌だ!」を押さえ殺そうとしているように見える。国という組織の中に生きる者(とくに優等生)にとって、「嫌だ!」は恐怖の対象なのだろう。沖縄の人たちやその歴史的な苦労への思いやりや理解など微塵もない。国の指導者たちの内心の声は「怪しからん!」なのだろう。

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