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2019年01月25日 (金) | Edit |
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息をするとは、全身運動であること。そしてそれは一人残らず誰もがやっている呼吸であること。それを私たちが意識しているか否かには関係なく。

簡単なことである。身体を風船と考えればよい。口や鼻から入った空気は、身体を内側から膨らませる。実際には、横隔膜を下降させることで空気を取り込み肺が膨らむ。横隔膜の下降圧迫によって、お腹が膨らむ。ここまでは腹式呼吸に興味を持ったことのある人なら、当然のことと捉えるだろう。

然しながらである。横隔膜の下降圧迫による身体内圧の変化が、足の先まで届くと考える人には生憎とお目にかかったことがない。と言うことは、現代人はかなり片寄った呼吸法しか知らないと言うことになる。

赤ん坊が泣き叫ぶ様子を観ればよく解るだろう。泣き声に伴う呼吸は全身的なものである。もちろん手足の先まで、生き生きと息が届いている。赤ん坊の握った小さな拳など、まるで息を逃すものかと、握りしめているようだ。大人に成ったからと言って、それが無くなるわけがない。

身体は皮膚で包まれた、風船のようなもの。内圧の変化は身体の隅々まで伝わる。意識がそれと感じるかどうかなど、問題にはならない。意識・理解以前の事実である。

身体の70%ほどは水分だと言うから、皮膚に包まれた水枕あるいは氷のうと観るのも良いだろう。水枕の一端を押しつぶせば、水圧が移動して他のところが膨らむ。あまり気張ると、脳の血管が切れるなどと言うのも、内圧が身体を伝わる証拠だろう。

息が出たり入ったりすれば、身体全体もその隅々まで、萎んだり膨らんだりを繰り返している。呼吸をしている以上、私たちは否応もなく全身呼吸・全身運動をしているのだ。これが理屈(エビデンス)抜きの事実!!

江戸時代の禅僧 白隠慧鶴さんがその著作の中で「息は踵でしなさい」と書いている。そんなこと言われる前に、私たちは踵(足裏)で息をしているのだ。

ただしである。呼吸に伴う、全身の変化は微細であるため、私たちの粗雑な感性では捉えること、意識することが出来ない。私たちは意識できないもの、つまり自らの五感を持って捉えられないものを、無き者として無視する傾向にある。私たち自身の五感の鈍さをそっちのけにして、ものごとの精妙微妙さを知ろうとはしないで打ち捨て、意(エビデンス)に沿わないと非難さえする。自我の性格である。

それでいて現代人は、意識(私・自我)に理解不可能なものは無い。意識的努力によって全ては到達・達成可能である。意識は絶対であると思い込んでいる節(伏し?)がある。

白隠さんの遺した、呼吸法や身体法の素晴らしさが、今に活かされていない理由は、現代人の意識を支える五感の鈍さ、あるいは粗雑さによる。白隠さんの感性の鋭さは、その禅画と墨蹟を見ればわかる。鋭さを支えているのは、精妙微妙な変化を感じとることのできる、彼の感性である。奥行きのある筆画だ。それは彼自らの全身の呼吸の実践があってのことだろう。

話は飛ぶが、私は禅堂で一度だけ、三泊四日の修行を受けたことがある。結跏趺坐で自分の呼吸を延々と数え続ける。交差した脚の脛が息を吸うたびに、焼け付くように痛む。息を吸えば胸・腹だけではなく、足・脚の中まで内圧が高まるのである。痛みによって、足・脚の感覚が呼び覚まされる。呼吸とは全身的なものであると思い知らされた。

私のレッスンの場に、自分は腹式呼吸、或いは丹田呼吸や横隔膜式呼吸が出来ていると言ってくる人がいる。脚で呼吸が出来ているという人もいた。どこかで呼吸法の指導を受けてきたようで、誰からそんな呼吸法を習ってきたのだと、問いただしたくなる。なぜなら、そういう人に限って先ず全身呼吸が出来ていないのである。

お腹は良く動くいているが、腰の後ろや股関節が固まっている人。お腹(前腹)を動かすことに努力をしたのだろう。腰廻りや股関節から先、足・脚先までの感覚(神経)が、筋肉のこわ張り(緊張)によって阻害されている。

横隔膜やお腹が良く動き、お腹に力が入るのが良い呼吸と思い込み、あるいは思い込まされて、努力を重ねた結果としての緊張、身体の強張りである。にもかかわらず、それらは全身呼吸を阻害するのである。そのためどんなにお腹が動いても、息は浅くて狭い。

足・脚の中身がガチガチに固まっているのに、私は足で息していますという人もいる。よく見ると、頭の中で描いた流れのイメージを自分の足・脚に投影しているだけ。幻覚である。固めて(緊張して)いては、感覚は働かない。足・脚の中の変化を意識(感覚)で捉えることが出来るはずがない。

全身呼吸(運動)が阻害されていては、どんな呼吸法も意味が無い。強い言いかたをすれば全身呼吸を前提としない呼吸法は「害悪」である。「からだ」=人間の歪みを生み出すのだ。呼吸法を立派に云々する人には注意をした方が良い。

息をすることは全身運動だと、初めに書いた。そしてそれは誰でもできているとも。では呼吸法など練習する必要がないではないかと言われるかもしれない。

それはその通りであるが、生憎と私たちは、全身呼吸を阻害するような身体の使い方を、大人になる過程で、無自覚のうちに様々に身に付けている。あるいは着けさせられている。

原因は、からだの内に潜む緊張である。知らぬ間に身内に潜めた筋肉の緊張は、感覚神経の働きを鈍くし阻害する。血管や体内の組織をも圧迫し巡りを滞らせる。そのため緊張自体は意識に昇ることが無い。要は身体の中に感知不能なブラックホールを抱えるようなものである。筋肉を引き締めて強張らしていては、微細微妙な変化を感じることはできない。

こんなふうに書くとたいそうなことだと思うかも知れない。けれども解決策は簡単である。筋緊張を緩めて、微細な変化を感じれるようにする。その新たに得られた感覚を脳の記憶に追加していけば良い。繊細微細微妙(=無限小=無限大)へと脳の認識能力を拡張してやるのである。結果として手脚にとどまらず、全身の内側の変化を感じとれるようになってくる。

赤ん坊は無自覚に全身運動としての呼吸をしている。これは知識や経験を前提としない、天与のものである。「いのち」の働きそのものである。そして我々大人は、その自然から与えられた呼吸をあらためて学ぶのだ。身に付けた余計な歪み=緊張・強張りを取り去ればよい。体内を吹き抜ける息の動きを意識できるようになる。それが「いき」(息・呼吸)が出来るようになると言うことだ。

放っておいても全身呼吸は出来ているが、それを十全に活用することで、私たちの心身は、自然に個性としての花を開く。また全身呼吸は全身運動でもある。身体と意識が快活に働く。

ふつう「学ぶ」と言うことは、「出来ないことが出来るようになる。教師の側からすれば、生徒が出来ていないから出来るようにしてやる。生徒は努力をして出来ないことが出来るようになる。」いろいろなことが出来るようになることが学んだ成果であり、その豊富さ(量)が成長であると認める。このようなごく一般的な「学び」の捉え方に、私は信頼を置いていない。

息(呼吸)ひとつを取ってもそうだ。誰もが出来ている、けれどもそれと気がついていないことがある。それを意識の視野に出してやる。

少々荒っぽい拡大解釈になるが、個人的にはその人が気がついているかどうかは別にして、その人ならではの個性=まだはっきりとは自覚されることはないが、既にその人の中から姿を覗かせようとしている独自の人間性。その人の中に既に働いていながら、意識からは認識されていないもの。それの現れを手助けするのが教師の役割である。

個性は一人一人の中にあり、それがその当人を育てる力である。「学ぶ」と言うことの結果は、より自分が本来の自分らしくなることでしかない。自分が本来の自分に近づく程に、世界は繰り返し新たな姿を見せてくれる。これが豊かさである。外から取って付けること、他者よりより有能になることを、私は「学び」として認めたくないのだ。

学びとは、あれこれと自分に取って付けることではなくて、自分の中に潜んでいる本来の自分を露わにしていくことである。取って付けたものは邪魔にしかならない。粗雑な意識を、繰り返し剥いでいったその果てには「いのち」との出会いが待っている。それは喜びを伴う過程である。その結果として自分自身が「いのち」の現れであることを識るのだ。

呼吸の話が、いつの間にやら教育の話へと、だいぶ大ぶろしきを拡げてしまいました。私は竹内敏晴・野口三千三に師事する以前に、林竹二(哲学者・教育者・宮城大学学長)に私淑しており、彼の著作と実践の記録によって二十歳(ハタチ)のころに「魂」をゆすぶられた。その際に「いのち」が手放しとなり、私に道を開いた。その後は「いのち」の風に吹かれて、竹内レッスンと野口体操に取り組むことで40年近い歳月を費やした。このごろようやく竹内・野口の峠を越えたように思うが、こんどは林竹二の教育実践『授業』が、私の前に立ちはだかっている。

日本語の「い」は「息」を表す。「ち」は「力」あるいは「はたらき」である。「いのち」は「いき-の-ちから」(息の力)である。「息」(呼吸)を学ぶと言うことは「いのちを学ぶ」こと。多様性は全て「いのち」の中に収められている。意識の思い付きで、あれやこれやを出まかせに作り出し差別化するのが多様性ではない。

わたしは、こんな風に考えている。一人一人の人が「いのち」を学ぶ、手がかりになれば素敵だと思う。足・脚を引っ張るのでなければよいが (笑)

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