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2019年01月23日 (水) | Edit |
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五感で捉えることが出来ないのが「いのち」。
そう言うと第六感とか、高次の意識とか言い始める人がいるが、これも五感による体験をベースにした認識法であることに変わりはない。五感で捉えられぬのに、あたかも五感で捉えることが出来るような幻想・勘違い。

では「いのち」を五感で捉えるにはどうすれば良いか?詩や物語がその役割を担っているようだ。

大正時代に、詩人 西條 八十 が訳詞をした童謡に『 風 』(誰が風を見たでしょう)がある。

誰が風を見たでしょう
僕もあなたも見やしない
けれど木(こ)の葉をふるわせて
風は通りぬけてゆく

誰が風を見たでしょう
あなたも僕も見やしない
けれど樹立(こだち)が頭をさげて
風は通りすぎてゆく

以下、クリスティーナ・ロセッティによる原詩

Who has seen the wind?
Neither I nor you;
But when the leaves hang trembling
The wind is passing thro'.

Who has seen the wind?
Neither you nor I;
But when the trees bow down their heads
The wind is passing by.

「いのち」の在りようを、「風」に託して歌っている。「風」が「いのち」そのものではない。「風」に譬えて「いのち」の働きを伝えている。

「誰が風を見たでしょう 僕もあなたも見やしない」、この場合は「見る」、つまり視覚=眼には捉えることが出来ないと言っているが、聴覚についても同様である。葉擦れの音を立てるのは、木立であって「風」そのものではない。五感の他の感覚についても同様である。

宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』の中にも、そのような記述がある。

「七、北十字とプリオシン海岸」ジョバンニとカンパネルラが、銀河の河原に降り立った箇所に、
「 河原の礫(こいし)は、みんなすきとおって、たしかに水晶や黄玉(トパース)や、またくしゃくしゃの皺曲(しゅうきょく)をあらわしたのや、また稜(かど)から霧(きり)のような青白い光を出す鋼玉やらでした。ジョバンニは、走ってその渚(なぎさ)に行って、水に手をひたしました。けれどもあやしいその銀河の水は、水素よりももっとすきとおっていたのです。それでもたしかに流れていたことは、二人の手首の、水にひたったとこが、少し水銀いろに浮(う)いたように見え、その手首にぶっつかってできた波は、うつくしい燐光(りんこう)をあげて、ちらちらと燃えるように見えたのでもわかりました。」

引用文中の「水に手をひたしました。けれどもあやしいその銀河の水は、水素よりももっとすきとおっていたのです。」、やはり銀河の流れ自体は、五感では把捉できない。けれども確かに存在するものとして、物語全体の中に繰り返し語られている。

「いのち」の在りようを、言葉で伝えようとすれば、こうならざるを得ない。五感で直接に把捉することが出来ないのが「いのち」なのだから。

余談ながら、インドのガンジス川を聖なる河とする人たちがいる。流れる死体と一緒に沐浴をしていても、病気に侵されることは無いという。そのガンジスの不思議は、五感によっては把捉証明のできない「いのち」の流れなのだろう。

科学に携わる人たちには、このような考えを受け入れ難いのでは無いかと思う。科学はもともと、五感によって全てを解釈(一般化)しようとするのだから、「五感」で捉えられないものを、前提としてはいない。むしろ五感で捉えられぬものなど無い、全ては科学的に解析可能なのだ!と。

私自身も、科学的に理解できないものは信じない!という傾向を持ってきた。「スピリチュアル」など、なんと胡散臭いものかと毛嫌いしていた時期もあった。説明のつかないものを絶対に信じない。

私は恩師竹内敏晴・野口三千三に導かれ、「からだ」と「ことば」の世界に入り、彼らの没後もその世界を逍遥してきた。40年近く「からだ」と「ことば」と向かい合い続ける中で、それらを識るには「いのち」=「五感で捉えることが出来ないもの」の存在(?)を首肯することでしか、「からだとことばのレッスン」が出来ないことを識った。

よく「幽霊の存在を信じますか?」と問う人がいるけれど、信じる人も信じない人も、自らの五感を頼りにその有無を論じている。そのような話に私は興味がない。「いのち」は、論じることもそれを解析証明することも出来ないのだ。けれども在ると肯かざるを得ない。そうしなければ生きて行けない何か。それが「いのち」なのだ。

これは私の、大変に個人的な「からだ」と「ことば」に関する体験からきた考え方で、それが真実であるからと決めつけて、他の人に教え込んだり強制することのできないもの。

だいぶ時間がかかったけれど、見ることも聞くことも嗅ぐことも味わうことも触れることも出来ない「いのち」を前提として「からだ」と「ことば」に関わることで、新たなレッスンの地平が拡がってきているのが、今ではわかる。

「いのち」は「働き」だ。目に見えない、五感で捉えることの敵わない「働き」が、途切れることなく常に働いていて、私たちの全ての営みを支えてくれている。レッスンも「いのち」のはたらきによって、成立するのだ。

一年半ほど前に、還暦をむかえ「乾杯!」ならぬ「完敗!」を喫した。「いのち」への降参!降参しないと見えてこないものがある。

瀬戸嶋 充 ばん



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