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2018年05月06日 (日) | Edit |
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『繭籠りの時季』

『「からだ」を「いき」にゆだね、「いき」に「ことば」を語らしめる。』
私にとっては「ことば」は誤魔化しようもなく逃げ処の無いものとして、眼の前にある。どうもこの辺りのこだわりが世間と折り合いのつかない原因なのだろう。

最近自分の立ち位置がハッキリしてきた分、世間との繋がりが希薄になってきている気がする。繭籠りの時季なのだろうか?

自分の「いのち」を晒し、他者の「いのち」と響き合い、「からだ」と「ことば」の再生に取り組む。それが私にとってのレッスンである。

レッスンに入ると、私の「いのち」は自由にはばたく。時間と空間の流れを「いのち」が風のように自在に舞う。その流れに身を投げ込むように、私はレッスンの場に自分を委ねる。

ただそれだけ、計画や指導法などといものは無い。

流れは静かに流れることもある。笑いの渦となることもある。激しく沸騰して高ぶることもある。けれども2時間なり4時間なりのレッスンの時空を行くとき、新たな発見に満ちたひと時の旅を終えるように、無事に旅を終えたささやかな喜びが身内を満たす。帰途につく私の足取りは悠々として、夕闇は広々と私を包む。

くり返されるレッスンの旅が、参加してくれる一人一人の存在感の変容を新たにする。そこには目に立つような派手やかな変化はない。けれども一人一人の根底からの、ささやかではあるが確かな変容が息づいている。

私自身は、他者の変容を目指してレッスンをするわけではないが、レッスンの中で一人一人の個性=存在が開かれてくる瞬間に立ち会うことは、私にとって何よりの喜びである。私を繰り返しレッスンに向かわせるのは、その喜び在ってのことだろう。もちろん他者の変容を意図して狙い、旅をしているわけでは無いのだが。

レッスンの場においては、私の「いのち」が、参加してくれる一人一人の「いのち」の風を受けて、共に自由に舞い踊りながら、流れを行くのだ。生かされ合う場なのだから、もちろん私も生かされる。「いのち」の自由を生きるのだ。

私は技能を教えない。教えるとすれば一人一人が自分の「いのち」にふれ合うための、手がかりとなる野口体操くらい。これも参加者が正しいやり方を覚えることを目的にはしていない。

ただ「いのち」の流れに身を委ねる手がかりとして、体操の動きをやって見せる。簡単な説明をする。頭でっかちな人には、雷を落とすこともあるが、基本その人自身の「からだ」とのつき合いが、一人一人の中で深まっていけば、それ以上に文句はない。

「からだ」の流れの方に、一人一人が身を寄せることが出来ていれば、「からだ」は自ずから「いのち」の流れに身を委ねて変容を生み出す。それだけのこと。ただしいつまでも頭でっかちで、自らの「からだ」を支配し、「いのち」を見下す人がいる。そんなとき私の「いのち」は渦巻く風となって、その人の固まった脳みそを打ちのめそうとする(笑)

そんなこんなで、私にとっての立ち位置、、、というか在りようというかは、ハッキリしてきたのだが、どうやらこういうことは世間の百花繚乱する様々なカテゴリの中には、収まりどころがないようだ。

世間は「タメになる」ことを求めて、次から次へとまさに百花繚乱のメソッドや情報や品々が溢れる。消費者は自分の欲求に応ずるものを、次から次へと求めて歩く。世間は求めに応じる物を次から次へと提供してくれる。

私は、提供するものを持たない。持とうともしない。消費とは、取って捨てることである。「いのち」は取ったり捨てたりしなくても、いつも私と共にある。そのうえ個々にあらかじめ個性的なものでもある。個性と個性が共にあれば、響き合い擦れ合い熱を帯び、新たな花を咲かせる。

私自身は、何かを世間に求める気にはならない。だから世間との繋がりは希薄になる。

そうそう、レッスンでよく逆立ちをやるが、逆立ちの原則は、無駄足掻きをしないことである。逆立ちをしようと努力・緊張することが無駄足掻きなのだから、それを止(や)める。そうすると誰でも楽々と逆立ちが出来てしまう。

世間は無理してでも「タメになること」を次から次へと求め続ける。無駄足掻きをしないとは、無理をしないこと。無理とは、理にかなわぬことを一生懸命やること。ご苦労なことだ。

レッスンでは無理をしない。出来ないことはできないことのままで良い。「いのち」の「理に適う」ところ見出して行けば、生きることは生きてるだけで、案外楽しいものだ。

こんな楽しさを共感・共有できる場を、創って行くしかないのかな?今はそのための繭籠り=変態のときか?貧乏は致し方ない時か?喰うためにはバイトでも探さなきゃならないのかな(笑)

繭籠りの枕の夢より。

(せとじま・ばん)

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