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2018年05月04日 (金) | Edit |
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『無明をこえて煌めくもの』

「からだ」を「いき」にゆだね、「いき」に「ことば」を語らしめる。

自我の発生

意図的な身体操作の始まりと、自我の発生。
思い通りになる、ということ。

細胞を囲む膜のこと。ここには内外の区別が生まれる。然しながら内と外は同一である。区別する細胞膜自体が、区別されたものなのだ。

細胞膜自体が、区別そのものか?
内外に区別があると見るのは、細胞膜自体であって、水や海水は、内外の区別なく浸透し合っている。
内外には差異があるだけで、区別という固定したものは無い。

細胞膜自体は、内外の調和した関係を保つためにあるものか?


痛みは自分ではないという。痛みは自分には属さないという。では、痛みの最中に生じている、痛みではない自分とは何だろうか。それをどう言い表せばよいのだろうか?

火渡りの修行が行われるが、火傷も痛みもないはずだ。
時間と空間というのも、観念である。それに対抗する考えとしては、自分が時間であり空間であると言う考えが成り立つかもしれない。

天・地・人、人が無ければ天も地もない。天地が無ければ人もない。

海の水から生命は誕生したと言う。果たして誕生をしているのだろうか。私たちは相変わらず、海の水ではないか?海の水に包まれているのではないか?

「いき」とは、運動である。固定してこれだと掴むことは不可能である。体験として「いき」そのものとなって過ごすしかない。それを体験後に「いき」と認識するのである。自我が破れ、新たな自我の形成が成される。成長である。自我とは取って付けて武装する類のものではない。常に更新を繰り返し、その運動を全うするのが、生きることではないだろうか?

この運動にも、繰り返されるパターンがある。しかしながらそのパターン自体が、重ね重ねの変容を孕む。

天体の動きがパターンを持つが、それは同時に機械のような精密軌道に収まるわけではない。変化を伴う運動である。

天体の運動というゆっくりとした変化に対して、私たちの時間は極端に短い。だから天体の運行は変化のないパターンを繰り返すように見えるのだろう。

時計の針は動いているが、その動きを目で見て捉えることはできない。
しかしながら、時計の針は動いていると、私たちは見ている。
目で見て耳に聞いて捉えられない運動がある。心臓の鼓動に重きを置くのは、それが運動をしている証拠となるからだろう。振り子の往復は時針の動きそのものではないが、秒針の動きもしかりであるが、分針時針の動きをそれらは証拠づけている。

自我と「いき」の関係。「いき」のみになるとき、自我は経緯を見守る透明な視点となる。「いき」が活動を始めるとき、自我は身体という実体感を持たない、或いは身体との結びつきの実感を離れる。

私=自我の実体感は、「いき」の運動にブレーキをかけるときに、意識される。ブレーキを外せば、自我は成り行きを見渡すための特定の観点を持たない視点である。

「いき」の繰り広げる劇場で「いき」に伴走をするのが自我と言っても良いかもしれない。

感情は「いき」の在りようだろう。喜・怒・哀・楽。感情はやってくるものだ。私を満たし私を走らせる。荒ぶる「いき」。これは他者の自我、つまり他我との関連において、私を通り道として、他者に向かう者か?

喜・怒・哀・楽は、他者や外部の状況を受けて、他の「いき」の解放を目指して、他我を揺さぶる「いき」の運動である。

私自身の内的な状況からの解放を目指して、意識化され頸木からの解放を狙って、蠢き身もだえをもたらす、喜・怒・哀・楽の感情=「いき」の運動もある。

「いき」の連なり=「いのち」の一つであることへの再生を目指して、「いき」は変幻自在である。連なりを切り殺そうとする者への、「いき」の氾濫は、様々である。

自我・他我は、「いき」を絶ち「いのち」を私物化し飼いならそう、支配しようとする。
そこを逆転させて、喜・怒・哀・楽をあえて表現することで、自我・他我の消滅を成り立たせる。演劇や歌など、「いき」の解放と、自我・他我の焼却再生を目指すものだろう。理性=既得概念と「いのち」の葛藤を、「いのち」の側から超えるのだ。新たな地平へと飛び出し、俗世の価値観を離れて、新たな価値世界を作り出す地平に共に立つのだ。

対立や相克の根を断ち切るのだ。自我も他我も、互いに他があってのこと。相対的な価値観の尺度は、自から見れば正、他から見れば誤。それを互いに他に投影し合う。正を持つことは誤を排除すること。無明の始まりである。

自我・他我の対立は、互いにその無明より来る。自我との同時発生による無明を閉じ込める、それと同じことを他者にも求める。自我は自らの無明に抗して自分の正当性を求める故に、その正当性に反する他者の行いをも、無明の中に閉じ込めようと努力を始める。

正⇔誤、美⇔醜、善⇔悪、好⇔悪、良⇔悪、賢⇔愚、永遠⇔刹那、富⇔貧、好⇔嫌、愛⇔憎、執着⇔自由、、。いずれにせよ自我は、一つの価値を持つときそれに対抗する価値を、切り捨てる。どこかに切って放り出すわけには行かないから、無明の中、意識の光の届かぬところに仕舞い込む。

集団的にそれが成されるとき、無明は深く力を増す。一つの正義の旗印のもとに人が集うとき、その集団の団結の向こうには、自分たちの正義を脅かす、つまり無明の悪を体現する他の個人なり集団を発見する。憎悪は、それらの悪と見做される個人なり集団を滅ぼすことへと向かう。内なる無明の悪の投影スクリーンとしての、異なる価値観を持つ他我あるいは集団への攻撃。それは行きつくところ、自分あるいは自分たちの集団を滅ぼすことに向かうのだが。

「いき」は、自我と他我、そしてそれぞれの無明を貫き、自己の全体性を垣間見せる。雷が走り世界を一瞬にして浮かび上がらせるのと一緒だろう。すべてがあるがままに、現前する。無明に閉じ込められていた、「いのち」の片割れも含めて。他者の中にもその片割れを見る。

無明とは、私たちが相対的な価値観を重用する故に、生まれてきたものか。「いき」から見れば、明(意識)と無明(無意識)を含めて、私なのである。どちらかに偏り、互いに他を排除することは無い。明にせよ無明にせよ、その一部でも排除することは、自分の存在を切り捨てること。それは自分を殺すことなのだから。

自分の一部を殺すことは、恐怖であり苦痛である。それを他者を傷つけることで埋め合わせようとする。それは自分を殺していることだ。

良し悪し含めて、私は私であり、他は他なのだ。それを事実あるいは真実として認める以外に、道は無いのではないか?

「いき」の流れ合いは、自我・他我を粉砕するのではないようだ。自・他それぞれの良し悪し含めた自・他を、そのまま露わにするだけだろう。在るがままというが、分別の色眼鏡を取り払って、自分と他者の姿をそのまま認めることだろう。

カッコつけるでもない、裸になるのでもない。そのまま全て自分であり、そのまま全て他者なのだから。

無明への得体のしれない恐れもない、明(知)への力みや奢りもない。気楽なものである。靄に陽が差し込むような静かな喜びがあるだけだ。

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