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2018年02月28日 (水) | Edit |
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レッスン曼荼羅(7)

「届く声」

とある心身に関する学術講演会でのこと。演壇上で講話が始まったのだが、話しが聞き取りづらい。講演者の発音が特に悪い訳ではないので、一所懸命に耳を傾ければ意味は分かる。そこでホール担当者に声をかけてマイクのボリュームを上げてもらうが、効果がない。

聞こえなければ、どんな素敵な話であっても意味がない。聴講者がもっとよく聞こうと身じろぎしているのが見える。けれども演者への遠慮か、だれも「聞こえません!」とは言わない。進行の担当が演者のところに行って、ハンドマイクを演者の口元に押し付ける。

話が聞き取れるようになり、客席のざわめきは消えた。ところが話が進むうちに、またまたマイクが口元から離れ始める。それを進行役がマイクを持ち上げる。そんなやり取りに草臥れたのだろう、聴講席には椅子にもたれて居眠りする人が出てくる。とぎれとぎれの話を聞き逃すまいと、さらに緊張し息をのみ、じっと身を固めて話に耳を傾ける人もいる。

不思議なことに、100名あまりの聴講者(観客)を前に、講演者本人は観客のそんな反応に、全く気がついていないようだ。そのうえマイクを持ち上げれば、僅かに怪訝な表情を浮かべる。話し始めれば自分の話に満足しているのだろう、穏やかな顔に戻る。

これに似た経験は、誰もがどこかでしているのではないだろうか。職場で、学校で、、、。

なぜこんなことになるのか?講演者が『自分の頭の中で、自分の声を聴いている』からである。自分の頭の中に響く自分の話声に耳を傾け、聞き入っているからである。

彼にとって、自分の声の響きは、十分な音量と的確な発声をもって、自分の耳に届いている。自分の話したい内容も、よく整理されて分かりやすいと思っているのだろう。おそらく今日は良い感じで話が出来ているとさえ考えていることだろう。彼は何の問題も感じていないはずである。

しかしながら、彼は自分の頭の中に響く声のみに注意がとられている。聴衆の反応やマイクの響きは、彼の耳には入っていない。

頭の中に響く声と言ったが、それを骨導という。喉や口腔内に響く声を、顎や頭骨を通じて、直接に耳(鼓膜)に響かせ、それを聴いているのだ。糸電話を思い出せば良いだろう。声を響かす部分(送話器=喉・口・鼻など)と鼓膜(受話器)とが、糸で結ばれている。このばあいは骨がその糸の役割を受け持っている。

空気中を通過しない声は、その抵抗や質の変化を受けることがない。他者から自分の耳へと至る時間差もない。自分の頭部以外の身体各部に響く声(振動)も、注意(意識)の外に置かれる。骨導を通じた自身の声は、外界の他のどんな音声よりも、優先的に自分の耳に届くことになる。

自分の中の糸電話(骨導)では、小さな声でも十分に聞き分けることができる。強い声では自身にとって、むしろうるさく聞こえるくらいだ。大きな声は思考の邪魔をする。そのため観客席から、よく聞こえないと指示されることには納得できない。自分ではこんなに良く聞こえているのだから、聞こえないはずはないと思ってしまう。機器に録音された声は自分の声ではないと言い張るひとはこういう人だ。

身体の他の部分(胸や腹など)に響く雑音もカットされてしまうのだから、自分ではクリアーな声で話していると思い込む。講演のときなどは、自分の話の内容と耳に響く声の心地よさににうっとりすることもあるだろう。今日はいい話が出来たと満足するわけである。

これはまさに言葉の真の意味での自己満足である。聴衆や観客の満足は、眼に、、否、耳に入らない。こんな素晴らしい話が出来たのに、居眠りしたり、しかつめらしい顔をしているのは、あんたたちが悪いとなる。

このような講演者の声は、観客には届いていない。むしろ聴講者の方が一生懸命になって、観客席から演壇上の講演者に向かって自分を届けているのではないだろうか。聴講者は周囲の雑音のみならず、身内の雑音(こころの動き)から身を剥がすように、眼をむき演壇に向かって身を乗り出し、いま風の言い方をすれば、自らのミラーニューロンを、講演者の脳に同期させようとでもするかのように。

これは洗脳である。洗脳とは権威者の意図だけでは成立しない。それに同調しようとする、それを受ける側の意図が必要なのである。

ともあれ、そんな努力から、その場で身を引いてみると良い。椅子に深く腰掛け、息を深くつき、自分の身体の中に注意(意識)を戻せば良いだろう。講演者の声が自分には届いていないことが、分かるだろう。

    *    *    *

それでは、声が届くためにはどうすれば良いのか。
割合に簡単なことである。糸電話の声から離れれば良い。しかしこれは単純なだけに難しい。

思考や観念は、糸電話と同期しているようだ。大きな声や周囲の雑音は、糸電話の声を乱す。それを許すことは自分の絶対としている思考や観念(考え)を邪魔することである。講演では観客の静粛を第一とし、それに従わぬもの、あるいは従えぬものは、その場からつまみ出される。

これが素人の雑談ならば、「あいつは分かったようなことばかりを言う。理屈ばかりで偉そうに!」のひと言で済まされるのだが、講演者相手にそうはいかない。

余談だが、学校の教師の声が教室で生徒に届かないことに気づき何とかしたいと相談を受けたことがある。教師も頭の中の糸電話をしっかり握りしめているのだろう。子供たちには、そのことが見えて(感じられて)いる。教師の声(言葉)への子供たちの反応は、ストレートに問題を指摘する。「大騒ぎをする!」(糸電話ではなく、こっちを向いて話せ!と)

糸電話(骨導)を切るには、自分の頭の中に向かっている注意を外に向け変えればよい。
糸電話に縛り付けられた注意(意識)を、観客との間の空間に差し向ければ良い。声は拘束から解き放たれたように、講演者とそれに向かい合う聴講者との、互いの面前に響きだす。

ところが自分の考え(観念)に自信を持っている人ほどこれが難しい。人に自分の考えを伝えることに使命感を持っている人などさらに大変である。こえが外に響きだすと、自分の考え(=図式)が、自分の中にではなく、目の前に浮かんでくる。自分が話している内容が目の前に展開するのだ。自分の中に押し込めておいて、厳密にコントロールされていた言葉の文脈が、そのコントロールの縛りを離れてしまい、他人事のように、外部に対面することとなる。

彼(講演者)にとって、自分とは何かと問われれば、それは考えそのものだと答えるだろう。おそらく無自覚にであろうと思うが、彼は自分の考えが何より大事なのである。その他(生活や自然)は、彼の考えを支え補強し証明するための、その考えの正しさに奉仕し従僕すべき者たちなのだ。彼のような者を権威やインテリという。彼らにとって自分とは考えそのものなのである。権威やインテリのそばに働いたことのある人ならば、良く分かると思う。「考えは素晴らしいが・・・?!人間としては?」となる。

声が自他の面前に差し出されるとき、考え(思想・思考)と自分(自我・自己)との同一観=癒着が切り離される。唯一絶対の自己と見做していた頭の中の考えと自分との間にある癒着が、切り裂かれる。ごくごく当然として思っていた自分像が、破壊されるのである。

声(こえ)とは「超え」「越え」の意味をも重ね持つ。自分(自我)という垣根を「越え」て、声として外部に響きだしてしまった言葉(考え・思想・思考)を、意識(=私)は他人事として眺めなければならない羽目になる。考え(思考・思想)から引きはがされ、そこに残った自分とは、空っぽの自分(意識)である。

専門のすべてを手中にしていると思い込んでいた自分(意識)が、手ぶらのまま置き去りにされる。自分を自分たらしめていた物が奪われ、何も持たない無知の自分を知り愕然とし、人前に、防備を外した自分を晒す恐ろしさに震えることとなる。(禅では無一物というと思うが、何も持たないのが「意識の本来の姿」なのだろう。意識が何かを所有していると思うのは、勘違いと言うことだ。)

しかしながら、ここが「届く声」に至るためのスタート地点になる。自分の考えに引きこもるのではなく、人に通じる考えを、それを聴く人と共に探求していかなければならなくなる。人類(人間)のためを説きながらも、考え(観念)の中に立ち、今まではその人類(人間)の中には立って居なかった自分(エゴ・自我)が、自分も人類の一人として、人類について語り始めるのである。

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声が届いているかどうかは、感覚的に誰でも手に取るように分かる。眼を閉じ息を深くして寛いだまま、静かに耳を澄ましていればよい。届く声は自分のからだとこころに触れる。触れてくるものが無ければ、それは声が届いていないと言うことだ。判断や理解のつけ入るすきはない。ただ届いているかいないか、それだけのことである。感覚の世界である。

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「からだとことばといのちのレッスン」では「頭の中の糸電話」を取り払う。声に絡みついた頸木が解放され、生き生きと弾む「こえ」と「ことば」がレッスンの場を満たす。こころ(=感情)が舞い踊り、イメージ(=言葉)が湧き立ち、「いのち」がお互いを物語の世界へと運ぶ。日常を超えた手放しの喜びを生きる祝祭が成立する。自我はその担った重荷から解放され、本来の自由=自分を再発見する。「跡は野となれ山となれ!」あらたな各人独自の歩みが始まることだろう。

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レッスン開催のご案内は、人間と演劇研究所ホームページでご覧ください。


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【ブログを更新しました】
「頭の中の糸電話」、ワープロを打ちながら浮かんできた言葉です。言葉によるコミュニケーションを考えるとき、大切なキーワードになりそうです。耳というのは他者や自然の声=外から来る音声を聴くためにある筈なのに、自分の発声器官と耳を直結してしまい、外部からの情報を遮断する。みんな自分の頭の中に引きこもり、雑音を廃し、人や自然を、自分の頭の中(脳の世界)の登場人物としてしか見れなくなる。それはバーチャルに閉じこもること。恐ろしいことが現実に進行しているようです。だから、独りごとの世界=つぶやき=Twitterが当然になる。何とかしなければと思います。だからレッスンが必要なのですね。人と人とが、いのちが直接に交流する喜びを取り戻すために。
(瀬戸嶋・ばん)


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