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2018年02月17日 (土) | Edit |
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レッスン曼荼羅(6)

「声をひらく」

声が出ないのは、決して努力が足りないからではない。声が出ないような状況をからだの中に自分自身で無自覚に作っているのだ。

その原因は緊張である。声を出そうとする瞬間に、意識することなしに身体を緊張させて、出て行こうとする声に蓋をしているのである。

それではその緊張がどこから来るかと言えば、学校教育のなかで知らず知らずのうちに、身に着けている場合が多い。

分かりやすい例を一つ上げてみる。

声のレッスンをしていると、声を出そうとして、肩と胸を持ち上げて息を肺いっぱいに吸い込んでから声を出す人にたびたびお目にかかる。これでは肩と胸に力(緊張)が入り、気道を圧迫する。声を聴いていると息苦しくてならないのに、本人は平気な顔をしていることが多い。

「大きく息を吸って!ハイ声を出しましょう!」などと、どこかで指導を受けて、それを鵜呑みにしてきたのだろうが、これが肩こりや高血圧の原因となっているとは、本人は思わない。気道を圧迫して喉を詰めれば、苦しいのが当たり前なのに関わらず、声を出そうとして自分で自分の首を絞めているのである。やたらハイになっているようにも見える。

自分で原因を抱え込んでおきながら、肩こりの痛みを逃れようと、足繁くヨガや整体に通ったりする。無理がたたれば、声帯を痛めて声が出せなくなる。もう無理はよして下さいと言う「からだ」からの訴え、ブロックである。

こういう人に、息を吸わずにいきなり声を出すように言うと、たいていが疑り深い顔をする。息を吸わなければ声が出るわけがないと思い込んでいるのだ。おそらく学校で習ったことを疑うことなくそのまま受け取ったのだろう。「大きく息を吸って~!はい、大きな声を出しましょう!」というよくある指示である。教師の言うことを良く聞く優等生というところか。私のような落ちこぼれでないことは確かだ。

活発で社会的に有能な人にこういう人が多い。何事にも胸を張って(胸郭を持ち上げて固めて)生きてきた人だ。意志が強く教師や上司の意図に良く答えることができる能力を持った人たちである。人を動かすことが得意な人たちでもある。胸と声を張り上げているので押しが強く、一見意志が強そうに見える。(逆に教師の言に素直に従った結果、理由もわからず声が出なくなり、コンプレックスを持った人もいることだろう。首は神経などいろいろな器官が狭い通路に目白押しだ。ここを締め付ける発声は、その緊張により神経や脳機能の障害をもたらすこともある。コンプレックスくらいならばまだ良いのだが。)

息を吸わねばならぬと思っている人には、説明して納得してもらっても仕方がないので、ともかく声を出す前に息を吸わないで声を出すのを試してもらう。声を出してみると驚く人が多い。胸を持ち上げて息を入れない方が、声が出しやすいし、そのうえ楽に長く声を出すことが出来る。当人もだが、聴いている人たちもその変化に驚く。声を聴く心地よさに微笑みや笑いが漏れる。自分の出した声に茫然とする人もいる。

声は身体の底、お腹の底から溢れ出し、聞いている人たちを声の響きに浸す(ひたす)ように、空間や他者に向かって明るく流れ出していく。呼吸筋(横隔膜)が胸の緊張の縛りを免れて、動き出したのである。このとき身体の中は空っぽの管のようになる。笛が鳴り響くような感じである。こういう人は、もともとエネルギッシュな人なのだろう、声がひらかれた時の変化には皆で目を見張る場合が多い。

これは一例であり、声がひらかれていく過程にはさまざまな場合があるが、声の出なくなる原因は、発声時に無自覚に身に負う(筋肉の)緊張である。「こえ」は出て行きたがっているのに、無理・不合理な緊張がそれを妨げているのだ。

大きく口を開けてとか、お腹に力を込めてとか、もっと大きな声で、力を入れてと、指示をされることが多いが、これらは緊張を強いるだけで、無理な発声法を身に負わせる結果となる。自己流でやりすぎれば、当然声が歪む。

動物的勘とでもいうか、無理や不合理には、理由は分からなくても従えない人たちがいる。直観の利く人だ。そんな人たちは指示に従わない、あるいは指示に従えない無能な落ちこぼれと見做されることもありそうだ。学校教育というのは怖いものである。良心をもってして、人の首を絞める方法を教える(笑)

ともかく、声というのは努力して出すものではない。声の出て行きやすい状況を身体に準備すれば良い。声の出て行くのを妨げている緊張を取り去れば、声は自ら喜び勇んで飛び出して行く。声を出すのにテクニックやトレーニングはいらない。蓋をとり、声をひらけばいいいのだ。

声がひらけて行く過程に立ち会うと、個人の意識をこえて声自体が意志をもち、人や空間に向かって響き合いを求めて飛び出してくるように感じられる。これを観て私は「こえはいのちのあらわれである」という。

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「からだとことばといのちのレッスン」では、発声時の緊張障害を解除する(チカラを抜く)手立てとして、野口体操に負うところが大きい。野口体操との出会いが無ければ、このような声へのアプローチは発見されることがなかっただろう。野口体操では身体を「透明な中空の管」とみなす。その管を共鳴体として利用し「こえ」は自らの響きを奏でるのである。このとき「からだ」と「こえ」の区別は消え失せる。

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レッスンの開催予定は人間と演劇研究所ホームページでご案内しています。

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