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2018年02月07日 (水) | Edit |
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レッスン曼荼羅(5)

「声と息」

声には、意識して出す「声」と、そうではない「こえ」がある。

ふだんあまり自覚することは無いかもしれないが、私たちは「声」を発するとき、自分の「声」に注意が取られている。常に自分の声を確認しながら話しているのである。

意識は、自分の「声」をチェック(判断)し、ジャッジ(審判)しているのだ。それは「声」が詰まったり喉に引っかかった時に良く分かる。違和感を感じて、変な「声」だと思い、発声をコントロール(調整)しようと躍起になる。

そのため、話す(「声」を出す)と言うことは、不断の緊張を強いられるものと感じられる。声を出すのは特別なことで、人によってはたいへん草臥れるものだと思ってしまう。

このようなときの息づかいは、単調である。息苦しさを乗りこえるように、一生懸命に張り切って「声」を発するのだが、息を絶やさぬための努力の痕跡が、息づかいとその発された「声」に入り混じる。

聞いていて堅苦しく、あるいは聞く者の心を動かすことのできない、癇(かん)に障るような「声」になる。(鞴フイゴのような息づかいの人が多い)

何とかせねばと、良い話が出来るように、話しの内容(話題)や話し方(語り口)に工夫をして、相手の意識(頭・脳)に働きかけて、心を動かそうとする。

けれどもいくら上辺を繕ってみても、話しの土台の「声」がそのままでは、何をやっても虚しいこととなる。「声」は、「言葉」は、聞き手という存在(=「からだ」)の深みへと至ることは無い。

芝居嫌いのひとたちが「わざとらしくて嫌だ!」(役者の振る舞いや物言いを)というが、最もなことだと思う。アナウンサーの話し方もそうだ。その「声」は意識的人工的な、手の込んだ作り物なのだ。

アナウンサーの「声」は、用意されたニュースや文章の内容を、アナウンサーの頭脳から視聴者の頭脳へと的確に伝えるために作られた、特化された「声」である。「声」に含まれる心の揺れ(=感情=息づかいの乱れ)は排除されなければならない。

自ずと息づかいは単調となり、感情的な表現は、自身の心の動きとは関係を持たない。眉毛の上げ下げやしかめっ面、固定し崩れることのない笑顔であったりと、それは意図的に作られたものとなる。

震災のニュースを語るときには、それらしく顔をしかめた表情を作る。表情を作ることで私は同情していますと言う「サイン」を伝えようとする。自分の感情(=「声」の動揺)はふさがれている。身内や友人が震災に合っていたとしても、号泣は出来ない。悲しそうに見える表情をサインとして顔に乗せるだけである。意識と心は分裂する。仕事とはいえたいへんなことだと思う。

最近の役者の「声」もアナウンスの影響を受けているのかもしれない。作家の描き上げたセリフを、過たず聞きやすく、観客に伝えるための「声」になってはいないだろうか。「声」を支える息づかい(感情の揺れ幅)は酷くちっぽけである。平たく言えば「声」に味や深みがない。表現される感情(情動)の浅薄さを補うように、表情や身振りは大げさになる。声色で感情を代用しようとするので、やたらと耳につく「声」の抑揚。虚しさばかりの、中身の虚ろな表現にならざるを得ない。

さて「こえ」である。

分かりやすいのは、赤ん坊の泣き声だ。そこには作り付けられたもの(=蔽い・パッケージ)はない。泣き声は、聞く者の「からだ」の中に直かに飛び込んでくる。決して耳にウルサイだけではない。周りの大人の心(=「からだ」)に直接訴えかけ、心を揺さぶり行動を促がす。泣き声を聞けば、何とかしなければと大人は行動を起こす。泣き声だけではなく、赤ん坊の笑い声は大人の「からだ」に入り込み、自意識の内側に融け入り心を和ませる。裸の「こえ」だ。

赤ん坊は感情と息づかいの間に、自我の作った壁を持たない。心の動き=息づかい(「いき」の振幅=感情)は、開けっぴろげで、大人の意識を突破し、その「こえ」は聞く者の内面に至る。

何かと自分を固めて、身を立てようと努力している大人(父・母)には、赤ん坊の「こえ」は、その頑張りを打ち崩す破壊的なものと感じられてしまうのではないだろうか。聞く人の事情によって、天使の声が悪魔の声になってしまう。

「こえ」とは、感情(「こころ」)の動き=「いき」の動き(息づかいの乱気流)=「からだ」の内的な動きの、外への現われである。

最近「ウキウキ」や「ワクワク」という発言をよく聞くが、私はあれに胡散臭さを感じてしまう。

何か新たな発見を前にしての、「ウキウキ」や「ワクワク」という内心の動き(弾み)は分かるが、その感情が表現されるときの、表現行為は、踊ったり飛び跳ねたり鼻歌が溢れて来たり大声で叫んだり、という行動の形をとるはずだ。

それが「ウキウキ」「ワクワク」という言葉にすることで、心(=「からだ」)の実際の動きを離れた、中身の虚しい単なるサイン(記号・合言葉)に置き換えられてしまう。

脳は「ウキウキ」「ワクワク」している気になるが、「からだ」=「いき」は沸き立ちも震えてもいない(脳内麻薬自家中毒)。結果、心の動き(=「息づかいの乱気流」)を伴なわない、「声」と言葉の虚しさが一人歩きを始める。ここにも意識と「いき」づかいの分裂がある。

また記号(サイン)や合言葉はそれを解せぬ人たちを、阻害する。「こえ」(=「息づかい」)に、人を分け隔てる壁は無い。演技者と観客、教師と生徒等々、「こえ」は、容易それらの壁を「こえ」る。

感情と言わないまでも、「こえ」は「からだ」の内側の変化を直接露わにする。街中を行く人の「声」を聞いていると、やたらと「声」を張り上げたり、上ずった「声」で話す人が多い。

多くの人が、胸から上の上半身、とくに口や喉・鼻・顔に声を響かせている。腹から足への下半身に「声」を響かせている人は皆無である。これでは、腹の底から笑うとか、泣くとか、怒るとか、大きな感情や情動(息づかいの乱気流)を伴う表現は出来ない。

自分という存在を丸ごとつかみ、沸き立たせるような感情の表現は、横隔膜(鳩尾)あたりで蓋をされているのである。情動は腹の底からやってくるものだ。そのチカラが激しければ、自分の内に蓋をすることは、激しい葛藤を抱えることになる。さぞ苦しいことだろう。

「モチベーションをいかに上げるか?」とよく言うが、心が動くとは「息づかい」が自由に弾むと言うことである。それが「こえ」となって、空間を超えて(「こえ」て)他者の「からだ」を震わせ弾ませる。響き合いを起こし、場を息づかせる。

人間が生きるための原動力(自己を突き動かし前進させるチカラ)は感情(情動)である。同時にそれは地震や台風のような激しいエネルギーを孕むことがある。日常を「こえ」る、限界を「こえ」る衝動。

人間は「こえ」をコントロールすることで、情動に破壊ではなく昇華という、解放への道を用意した。

破壊に向かう鬨の声が戦場に響き、「声」を戦う相手へと向け、相手を威圧し震え上がらせる。破壊のための「声」。

伝統芸能の「能」では「こえ」は天地をこえて、激情を昇華し「花」と化す。「能」は人間の持つ破壊性の平和利用である。花火もそうだ、火薬(武器)の持つ破壊性を天地に捧げる花と化す。日本文化の凄さだと思う。

「こえ」をコントロールするとは、外から眺めて自分の「こえ」に細工を施し、「声」にすることでは無い。自らの「からだ」(=自身)が「こえ」そのものとなることで、コントロールは達成される。自己を「こえ」=情動に明け渡すとき、不思議なことではあるが、コントロールが可能になる、

息の乱れや激しさを正そうとするのは、情動を、意志のチカラで押さえつけようとすることだ。そうではなくて、「こえ」と自分、つまり「いき」と「からだ」の分離が修復され、回復されるとき、情動は「私」自らの存在そのものとなり、私の思いに賛同し、私を天地に舞わせる。「いのち」の風に吹かれて自由自在に舞い踊る自分自身が体験される。

このとき赤ん坊の「こえ」が、「ことば」=理性を持つことになる。「感情」と「理性」とは、葛藤から協働へと、その関係を新たにする。

「劇」というのは「はげし」と読む。舞台で「ことば」を語るとは、「はげし」=「息の乱れ」を「こえ」にして「花」として天地に手向ける作業である。天地は私たちの「からだ」を通じて喜びを表現してくれるのだ。これを「祭り」=「祝祭」と称ぶ。

「からだとことばといのちのレッスン」は祝祭の成立を目指す。

私は、「いき」も「こえ」も「からだ」も同じく「いのち」の現れと見ている。「いのち」とは、「い(イキ)」の「ち(チカラ)」、あるいは「いき」おのずからの働きである。

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人間と演劇研究所ホームページに、1987年当時の竹内演劇研究所でのレッスンの動画を掲載しました。HPの「動画・解説」の6番目をご覧ください。
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<Facebookコメントより>
【ブログを更新しました】
先日のレッスンで「内臓器官」が『主』で、運動器官や脳は『従』であるとの話をしました。寒さに震えるのは、体内環境(内臓器官)の温度を恒温に保つためです。そのために内臓が脳や運動器を利用する。
古来日本人は「腹・肚」の文化を育ててきました。丹田が『主人』(主体)です。
現代の人は、「意識」=脳が『主人』で「からだ」は『従僕』だと思い込んでいるようです。この思い込みが変わってくると、生きていることの意味が拡がり、楽しくなると思うのですが。
でも、世間の常識の壁を溶かすのは難しいですね。
『声と息』への、凝り固まった世間の常識を溶かしていくのも、一緒です。
「レッスン曼荼羅」は人間と演劇研究所ホームページ https://ningen-engeki.jimdo.com/%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%B9%E3%83%B3/ に掲載しています。
(せとじま・ばん)

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