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2018年02月01日 (木) | Edit |
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レッスン曼荼羅(4)

「逆立ち」

『自分を投げ捨てる。投げ捨てようとする自分さえも投げ捨てる。』

「自分探し」という言葉はもう古いのだろうか。今では「自己実現」とでもいうのかも知れない。その根っこには「今の自分は、本当の自分ではない。もっといい在りようがあるのではないか?こんなのは自分で在るはずはない!自由になりたい!」と言う、上昇志向=我欲が働いているのだろう。自由という不自由がここにはある。

我欲というのは、裏返せば不満の現われである。自らに満ち足りることがないから、ほっつき回る。自分の理想に合わせて世界を変えようとして、身近の人間関係のみならず、果ては地球環境(母胎)をも破壊する。

自分の理想どうりの世界になったら、果たしてその人、あるいは人間は満足するのか。そんなことは無い。何もやることが無くなる。理想が叶うとは死の世界に入ることだ。後悔先に立たずという。最後には虚しさが待ち受けているとはだれも思うまい。

その虚しさこそが、スタート地点なのかもしれない。「うつろ」(虚ろ)と言う。虚ろになれば、今まで脳裡を占めていた理想(自分・世界)にしがみ付くことができなくなる。

理想を追っていれば、眼差しから煩雑な現実は追いやられる。思うに任せぬ現実から、眼を逸らすことができるので「心」の自由が保障(担保)される。それは理想という虚構を土台にした自由でしかないが。

「心」が虚ろになるとき、我欲の色眼鏡を超えて、様々な現実の光景が姿をあらわす。目の前にやってくるのである。その恐ろしさに怯え、また理想に閉じこもろうとするが、もう理想は自分を守ってはくれない。吹きすさぶ雪嵐の中に、一人身を晒すに似ていることだろう。

ようやく自らの現実が姿をあらわしたその時、それを受け入れることは、困難を要する。現実を見て来なかったために、当人は、理想という手立てしか持ち合わせていない。現実を現実として見て、現実の世界と関わるための手段を持たないのである。赤子と同じである。赤子に戻ってやり直さなければならない。

しかしながら私はこれを素晴らしいことだと思う。毎日が新鮮である。自分を自分として、他人や社会を憚ることなく、自分で自分を育て直すことができる。人や社会や自然と関わる、日々時々刻々が自分を学びなおす機会となるのである。

「自信」など木っ端みじんになれば良い。不安の中に一歩一歩を進めて行く、その「行為」こそが正真正銘の「自信」なのである。

「自信」を持て!という。そんなものは嘘っぱちでしかない。自負心というのは、傷を受けて直ぐに打ちこわされることは、誰でも知っていることでは無いか。

虚無は終着点=末路ではない。本当の生きることの意味を探る旅が、やっと始まる出発点だ。後戻りの利かない末広がりの道(自由)となる。

挫折を新たな始まりと観るためには並々ならぬ辛抱と苦労がいる。虚無を豊かさの土壌と観るには、全身全霊をかけて事実の何たるやを、ひとつひとつ見出して行かなければならないからだ。自分探しや自己実現などと言う言葉は、意味を失う。

『逆立ち』は、虚無を経過することで事実の豊かさを体験する手立てを与える。大地のチカラに身を委ねるレッスンである。私たちが体育や体操で習う逆立ちと外形は似ているが、意味内容の異なるものである。繰り返し地にひれ伏し、五体投地をしながら巡礼の旅をするのに近い。

結果から言えば、レッスンで行う『逆立』ちは、ふだん頭を上にして立っている自分が、そのまま逆さまに立つだけのことである。

ふつう体育や体操の逆立ちでは、姿勢を保とうとして、身体を張り詰め緊張させて一生懸命になる。一瞬の油断も許されない。バランスを取ることに全神経をかけて頑張る。

それらの努力を全て取り去ったものが、レッスンで求める『逆立ち』。ただ(只)立つだけである。頭の位置の上下が逆になるだけのこと。「我」は空間に融け去り、安楽で静かな喜びに満たされる体験である。自意識=からだ=虚ろが成立する。

立とうとする努力を放棄したところに成り立つ『逆立ち』。「自分が立っている」というその「自分」(=実感・努力)が放擲され、ただ「立っている」あるいは「立たされている」ことの成立。「立た・される・こと」、つまり他の働きかけ(この場合は大地のチカラ)によって、自らの行為=『逆立ち』が成されていることを識ることができる。

そこに至るためには「自分が~を成す」の「自分が」をどうやって捨て去っていくかが勝負になる。やがて「~を成す」という意志も「立つ」ことの中に融け去ってしまう。そこにやってくる『逆立ち』がある。

こればかりは、体験でしか伝えることが叶わないのかもしれないが、あえて言葉にすれば『逆立ち』とはこのようなものである。

実際には、自分の「からだ」の中身(重さ)を、手のひらを通して地面の中に流し込むと、その応答(反作用)として地面(大地)のチカラ(重さ)が私の「からだ」に還流してきて、私の「からだ」を吹き抜け、天に向かって立ち上がらせる。そんな感じである。

チベット仏教の信仰には、五体投地を繰り返しながら、50㎞から場合によっては1000㎞以上の距離を廻る「巡礼」がある。地を這う芋虫のように、大地にひれ伏しては立ち上がることを繰り返しながら進んでいく。それは苦行ではないと思う。大地のチカラを頂けるからである。(ちなみに苦行の「苦」は文明との葛藤にある)

私自身は、1980年代に野口体操に出会い、野口三千三さんの実践する『逆立』ちを学んだ。とはいっても、私は竹内レッスンを指導する前に、自分の「からだ」のウォーミングアップに『逆立ち』を繰り返していたのだが、ある時、野口体操の『逆立ち』がふとやってきた。逆立ちが出来たことの嬉しさに小躍りしていた自分を覚えている。野口体操に出会ってから7年目のことだ。まったく「ちから」のいらない『逆立ち』を体験した。

「自分を大地に投げ捨てる。投げ捨てようとする自分さえも投げ捨てる」それは「からだ」を通じてのみ成り立つ。自意識の計らいによっては発見され得ないものである。『逆立ち』が成り立つとき、我欲=自意識は融け去るのである。細やかな取るに足りないものかもしれないが、その時に体験される、ある「感じ」によって、私は初めて満たされ、喜びを持って自らの歩みに信頼を置くことになった。「虚無」は豊かさへと姿を変えた。これを「出会い」とも呼ぶ。

「我欲」は悪者ではない。むしろ私たちが生きて行くためには絶対に必要なものである。それは「虚無」へと私たちを導いてくれる。「我欲」が無ければ「虚無」を知ることもなく、真の自由を知ることもない。大切なことは「虚無」を終わりと見ずに、生まれ変わりの機会、真の豊かさを知る契機と見ることだ。現代はそんなチャンスに満ち満ちている(笑)

『逆立ち』は「我欲」に振り回され煩わされることのない、自由に生きることの始まりである。この「自由」を、中国の孔子は「心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず」という。日本では「煩悩具足の凡夫」「娑婆即寂光土」ともいう。



人間と演劇研究所ホームページにて他の動画もご覧になれます)

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<Facebookコメントより)>
「レッスン曼荼羅」を作り、一つ一つの「ことば」の奥底に潜む世界を探り始めました。「占う」とは「裏を綯う(なう)」。現実の出来事の奥底(裏)にある世界を、言葉に織り成す(綯う)ことですね。これが結構面白い。書きながら「はあ、そうだったのか!」と、感心することしきり。置き捨ててきたことにこんなに豊かな意味が隠されていたとは。長生きしてみるものですね~♪
レッスン曼荼羅は人間と演劇研究所ホームページでご覧ください。
(せとじま・ばん)


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