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2018年01月29日 (月) | Edit |
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レッスン曼荼羅(4)

『流れとしての動き』

「いき(息)」を「流れ」とみると面白い。

木枯らしに舞う枯葉は、地を這い、渦巻き、舞い上がり舞い落ちる。煽られ、流れが静まれば地に落ちる。木の葉が樹幹から吹き飛ばされ、カラカラと宙に踊る。枯葉は、変転自在の「流れ」に乗って舞い踊るのだ。この場合「風」は大地の息吹=「いき」の流れである。

「風」を眼に見ることはできない。私たちが見ているのは、風に舞う「枯葉」の動きであり、「風」そのものを見ているわけではない。私たちは、風の流れ自体を見たり感じたりすることは出来ないのだ。風が肌に当たって冷たいと言うが、冷たがっているのは肌の方で、風のせいではないし、冷たさを乗せて風の流れが吹き付けてきただけだ。「流れ」自体には、冷たいも温かいもない。

同様に「流れ」は、手に取って見たり、感じたりは出来ないものである。「風」は空気という物体(分子)の流れではないか?と疑問を持つ人がいるだろうが、分子さえ「流れ」に乗って舞い踊っているとは考えられないだろうか。

東洋的な身体観に「気の流れ」と言うのがあるが、「気」なんてものがあるわけではない。「流れ」そのものがあるだけだ。見ることも触れることも捕まえることも出来ない「流れ」が「在る」。仏教の「空」とか「無」と言うのも、このことだろう。本体を持たない「流れ」そのものを表す。

物質至上主義の文化の中で育てられた私たちには、このような考え方を受け入れることが難しい。「流れる」と言うと、その前に「何々が」を並べないと気が済まない。「空気が流れる」「河が流れる」「人が流れる」「気が流れる」等々、「何々が」を持たない「流れ」そのものには思いが至らないのである。触れることも見ることもできない存在を、それと認めることに、私たちは酷く抵抗感を持つのだ。

とにもかくにも、生きていると言うのは、この得体のしれない変転自在の「流れ」に乗って、木の葉のように舞い踊らされ流離う(さすらう)ことだ。これを恐ろしいと思うのか喜びと感じるのか、そこが個々の人生への向かい方の分かれ目かも知れない。

「いき」に話を戻すと、「いき」は「流れ」そのものであるから、「いき」を知る(識る)とは、自分を埃や塵の微塵と化して、風に舞い立つように「流れ」に身を委ねることである。感受性の問題になってくる。

ふつう私たちは「からだ」を物の塊のように思っている。自分と外界を皮膚で仕切り、皮膚の内側には様々な物体が詰まっていると見ている。そして骨や筋肉や器官・組織等の物体を、どう扱うかと言うことに熱を上げている。

これは解剖学的知見や科学の発見を唯一絶対とみる、狭小なものの見方考え方に則っている。一つの観念の描く図式=科学的世界観を絶対視し、それを自然や人間に当てはめることで、その他の見方や考え方=可能性を排除してしまう。科学的に説明できないことは、亡き者にされてしまう。

「からだ」の強張り(緊張)を溶きほぐすと、どこに胃があって、どこに脳があって、どこに手があって、肺があって、どこに骨があって・・・、などと言う科学的な理解に基づく仮想の実体感は消え去ってしまう。ただ静かにフウワリと柔らかく動き続ける「いき」の流れが「からだ」を海の満ち干のように、行き来し満たしているだけである。(野口三千三はこのような在り様をコアセルベートの研究を例に「原初生命体」と呼んだ)

ふだんその「流れ」は、粗雑な身体感覚の網の目に埋もれている。脳と神経は、筋緊張の強張りために、微細微妙な流れの変化を感知することができない。「からだ」が緊張=強張りから解放され、「からだ」の隅々まで微細な感覚が取り戻されるとき、「からだ」は「流れ」=「いき」に乗って舞い踊る微塵となる。皮膚の内外と言う区別さえない。それが「からだ」だ。(平仮名で「からだ」)

「流れ」は、人の「からだ」の天地(地から天)を吹き抜けるのがお好みのようだ。繰り返しになるが、私たちに出来ることは細やかに細やかに、身に負った余計な緊張を解きほぐしていくことだ。微塵となった「からだ」を、自我の限定を超えて、「流れ」が天地に運んでくれるまで。

宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』の中に、「ジョバンニは、走ってその渚に行って、水に手をひたしました。けれどもあやしいその銀河の水は、水素よりももっとすきとおっていたのです。それでもたしかに流れていたことは、二人の手首の、水にひたったとこが、少し水銀いろに浮いたように見え、その手首にぶっつかってできた波は、うつくしい燐光をあげて、ちらちらと燃えるように見えたのでもわかりました。」とある。賢治さんも「流れ」をどう物語に表すか苦労したのだと思う。

彼は「エーテル」という言葉を使っていた。すべての動きの媒質(場)である。それは虚無ではない。変転自在で留まることのない動きに満ち満ちた、見ることも触れることもできない「流れ」である。

「流れ」から見れば、物も人も区別はない。我も汝もあったものでは無い。

賢治の詩『春と修羅』「序」の冒頭に、
「わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)」
と在る。

舞い踊る「流れ」=エーテルに浮かび、互いの存在(「からだ」=「すがた」)を照らし合い煌かせ合う私たち。「からだ」の動きは「流れ」の側からやってくるのだ。

科学さえも、この「流れ」に乗って踊り舞うものとなれば、「いのち」の喜びの渦(うず)を共に旅するものとなれるはずだ。

そういえば、ゴッホも「糸杉」に流れを描いていたのを思い出した。

ゴッホ-「糸杉」400-250-ed 

(「流れの動き」(野口体操)を動画で掲載しています。人間と演劇研究所ホームページをご参照ください)


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