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2018年01月27日 (土) | Edit |
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レッスン曼荼羅(3)

『足の裏の呼吸』

息の深さと細(ささ)やかな喜び=豊かさとは?

現代人は、ともかくみんな息が浅い。どうやら呼吸と言うのは、口・鼻・胸・お腹と、腰から上でするものと決めつけているようである。下半身で呼吸をすると言う人にはお目にかかったことがない。そんなことを公言すれば変人扱いをされる時代なのかもしれない。

人間の「からだ」は、風船みたいなものである。息を吹き込めばパンパンに膨らみ、息が抜ければ萎んでしまう。息の出入り(呼吸)に合わせて、全身が縮んだり膨らんだりを繰り返している。手脚の先、指先から頭の天辺まで、部位によっては意識にのぼらないほどに微細ではあるが、呼吸に連れて動いているのである。

ところが、どこで呼吸をしているかと問えば、ふつうは口鼻で、学校で真面目に理科の授業を受けた人は肺で、武道やスポーツに関心がある人は腹(丹田・横隔膜など)でと答えが返ってくるだろう。風船のように全身で呼吸をしていると答える人はほとんどいないはずだ。

胸や腹は動きを実感しやすいのだろう。物事の出来不出来を、実感しやすいところで決める。呼吸への理解は浅いものとなって当然かもしれない。全身の呼吸を実感するのには、ちょっとした手間がかかる。

意識は強い刺激や変化を捉えることに慣れていて、からだの微細繊細な変化を感じ取ることには慣れていない。からだ全体に起きる変化を感じるためにはトレーニングが必要だ。

現代人は、音楽にせよ食にせよ性にせよ、とかく強い刺激を好む。からだの感性が鈍くなっているから、それを鞭打つように刺激し、生きている実感を求める。その鈍さの元は、緊張である。からだとこころのこわ張りが、積もり積もって感受性を鈍くしているのだ。

生きていると言うことは、変化すると言うことである。こころとからだが様々に動くと言うことだ。変化が固まってしまえば鬱になる。死を逃れ何とか動き続けようと、薬剤を含めた様々な刺激を求める。成れの果てに手立てを失って、暴力を振るうしかなくなる。

刺激を強めることより、強張りをほどいて、繊細微妙な変化を感受する能力を育てればよい。そこには微細ながらも千変万化、無限の豊かさがある。お決まりのパターンに飽きるなんてことはありえない。

『足の裏の呼吸』であるが、股関節から足先までの息の変化を実感する練習である。ふだんその変化を意識したことがないので、細やかな変化を感じ取れるよう、意識と感覚の関係を繊細にしていかなければならない。荒っぽい意識の実感から、微細な感覚へと、意識をチューニングし直すことが必要だ。

先ずは、股関節から足先までの緊張を解きほぐしていかなければならない。ふだんこき使われるばかりで、相手にしてもらえない脚は、いじけてこわ張っていることがほとんどだ。こわ張っていては感覚が働かない。たとえれば、「こわ張り」という岩石を砕き、細かく砂粒になるまで、さらに埃になって宙に舞うほどにまで、脚の緊張(こわ張り)をほぐして行く。

埃になって舞うような、その繊細微妙な変化に意識の感覚をチューニングしていくと、脚の中の流れ、脚の付け根(股関節)から腿、膝、下肢、足、足裏へと吹き抜ける「流れ」が感じられてくる。このとき同時に、胴体や頭の中までもが、流れが吹き流れて行くのを感じられる。「からだ」全体を、流れ(息・いき・活き・生き)が吹き抜けて行くのがわかるのである。

呼吸に伴う胸の動きやお腹の伸縮感という粗大な実感は消え去り、滑らかな流れの中に溶け込むような、微細で淡い安らぎに、こころもからだも包まれる。

これは「からだとことばといのちのレッスン」のベースとなる身体観である。科学的な即物的身体観とは「からだ」の見方を異にするが、古来伝統的な身体の捉え方としては普通のことである。少々発想の転換を必要とするが、誰にでも簡単に体験できることである。

『足の裏の呼吸』は、ふだん意識から疎外されている足・脚へ注意を促すことで、生きていることの豊かさを取り戻していく手がかりを与えてくれる。

頑張って一生懸命に足の裏で呼吸をするという、人が陥りがちな、攻めの態度はやめてほしい。頑張りはほんとうの豊かさを生みはしない。欲張りは禁物だ!自分自身の「からだ」=いのちのささやかな変化を慈しんでほしい。

(からだとことばといのちのレッスン曼荼羅は人間と演劇研究所HPでご覧いただけます)

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