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2018年01月19日 (金) | Edit |
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レッスン曼荼羅(1)

『手招き』

サイン(合図)とアクション(促し)の違いが問われるレッスンである。

誰かが私を手招いている。あるいは私に向かって手を振っている。「ああ!あの人は私を呼んでいるのだな」と思い、或いは相手の表情を確認してから、私は相手に近づいていく。

そこには「呼ぶ」というサイン(合図)を発する『相手』と、そのサインの意味を受け取り、その意味を確認して行動を起こす『自分』という関係がある。

「呼ぶ」(言葉)にせよ手招く身振りにしても、私たちは相手の発するサイン(合図)を自分の脳内の記憶に照らして確認し、その意味を理解し、それに応じた行動を起こす。つまり、ふつうにコミュニケーションと言えば、相互の言葉や振る舞い(行動)の意図を読み合い、それに返答を重ねるものと考えられる。ここではサイン(意図・図式)のやり取りが行動の意味するところとなる。

アクション(促し)とは、サインを介さない、『相手』と『自分』との間に生じる出来事である。それは相互の意図への意識の理解を前提としない。言わば身体から身体への直接(無前提)のコミュニケーションである。

『相手』に向かって差し伸べた手で相手を招く。「手招く」という身体から身体への促し(アクション)の成り立ちを探るのが「手招き」のレッスンである。

「招き猫」(人形)の動作は、サインである。私たちはその動作を見て、脳内の記憶に照らしてその意味や意図を知る。けれども「招き猫」が自分を招くのと、誰か一人の人間が自分を招くのとでは、受け取る印象が異なることは誰にでも分かることだろう。人から人への促し(アクション)には、「からだ」から「からだ」へと通い合う『何か』がある。この通い合うものを私は「いのち」と名付けている。

「手招く」とは、『相手』と『自分』の間に通い合うこの『何か』に、互いに身を委ねることである。意識的な判断や思考(合図や意図・サイン)を頼らずに、手を差し伸べることで始まる通い合いの中に入り、『相手』に自分を開き、『自分』と『相手』の分け隔ての無い世界へと『相手』を招き入れる。このとき自他を超えて息づく流れが、からだの奥底より互いの行動(アクション)を促す。招く掌(てのひら)の些細な動きが、相手の「からだ」の内側に直接に触れ、心の縛りや強張りを紐解いていく。

差し伸べた手が、相手との通い合いの中に息づいているか?レッスンではそこのところに注目する。サイン(合図や約束事)のやり取りに基づく行動ではなく、「からだ」から「からだ」への直接の促しとして「手招き」という行動(アクション)が成立するために。

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手を差し伸べるとは、『相手』と『私』の間の、距離感や空間認識、つまり物理的な隔たりの前提が消え去る体験である。自他の認識が奪われ、互いに一つの空間に溶け込むとも言える。空間認識=距離感とは脳の作った観念(幻影)である。自他という区別を私たちは絶対のものとしているようだが、これも脳の作り出した観念である。その観念への捕らわれから離れるところに「何か」が通い始める。これが『いまここ』であり、真の自由はここから生まれる。

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サインを、意図を持った意識的な行動とすれば、アクション(促し)によって意図を介さずに直接に人と人とが繋がり合うことは、「只」を付けて「只手招く」と言うように、表した方が良いかも知れない。「只」とは付随するものをそぎ落とし、本質のみを残すことばだから。人と人との関係がサインのやり取りに埋め尽くされているように思う昨今、本当の繋がり(コミュニケーション)は、この意味での「只」を体験しない限り、満たされることが無いように思われる。

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竹内敏晴は「アクション」を他者への「働きかけ」と言っていた。私にとっては他者への行動の「促し」と呼んだ方がしっくり来るようだ。「働きかけ」と言う言葉は働きかけようとする自分(自我)の印象が強くなる。「促し」には『相手』の存在が浮かび上がってくるように思う。

曼荼羅-ed
この画像はホームページにてPDF版で公開しています。

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