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2017年11月22日 (水) | Edit |
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 集中すれば、集中を妨げようとして、脳が反応をし始める。

例えば『坐禅』を組む。呼吸に伴うお腹の中の変化、息の動き(感じ)に意識を集中しようとすると、さまざまな雑念が浮かんでくる。

「肚で息を感じるとはこれで良いのだろうか?」「こんなやり方で大丈夫だろうか?」その思いに意識が行っているときには、お腹の息から注意が逸れてしまっている。

逸れたらお腹の息に注意を戻せば良いのだが、それが案外に難しい。「脚の組み方が違っているのではないか!」「背筋を伸ばさなければ!」「鼻で息をしなければ!」。お腹の息のことはほっぽらかしで、正しい坐り方を確認しようと、次から次へと考えが浮かんでくる。当然、お腹の息のことなど忘れている。

ようやく考えが途切れて、お腹の息に注意を戻し、呼吸の変化を感じてみる。集中できたと思っていると、こんどは身体のあちこちが気になり始める。「肩が重苦しい!」「足が窮屈!」「首が辛い!」「鼻がかゆい!」そこからまた考えが浮かんできて、「姿勢を直して良いのだろうか?」「鼻を掻いても良いだろうか?」。いつの間にかまたお腹の息から注意が逸れてしまっている。

再び息に注意を戻すが、「そうだ無にならなければいけない!」「ポカンとしなけりゃ!」「雑念を消さなくては!」とまたまたお腹の息のことをすっかり忘れて、意識的な工夫と努力を始める。

努力に草臥れて、お腹の息のことを思い出す。あわててお腹の息の動きに注意を戻す。集中する。しばらくすると今度は妄想がやってくる。「(日常の場面が浮かんできて)ああ、あれはこうすれば解決できるかもしれない!こんなところで坐っている場合じゃないぞ!」「光が見えてきた!これは悟ったのかもしれない!」「自分は凄かったんだ!やる気が湧いてきたぞ!」・・・。お腹の息のことはどこかに置き去りで、意識は妄想に耽っているのです。

お腹の息に集中しようとすると、それを妨げるようにして脳が活動を始めます。集中すると言うことは、脳に書き込まれた自我の地図を飛び出すところへと、注意を向けることです。脳からしてみれば、虚無の世界に意識を向けようとするように見えるのでしょう。脳は自分の中に保存された世界の外に飛び出し、その安定を妨げようとする行為に対して、ブレーキをかけようとするのです。脳にしてみればその支配圏の外側へと意識が飛び出すことは、存在を脅かすタブーなのです。

お腹の息に注意を向けようとすると、「怒り」や「悲しみ」の感情が浮かんで来ることもあります。イライラしたり辛さが込み上げてきたり、これは敵や障害物に対する脳の反応。自分(脳)の存在を無視して、それを捨ておこうとする『集中』を妨げようと、脳が足掻くのです。
脳が脳のテリトリー=支配圏を平穏に保つための反応が、雑念や妄想・情念なのです。意識がその支配圏の外に出て行ってしまうことが、脳にとっては許されない。脳は我がままなんですね。自我と言い、エゴと言います。

けれどもこんなエゴをいくら構っていても、集中は成り立ちません。集中の成り立ちのために何ができるか。繰り返し、お腹の息に意識を戻し、呼吸の出入りに伴なう腹圧の変化=お腹の中の微細な動きの感覚へと、脳の誘惑を構わずに意識を繰り返し繰り返しお腹に戻すことが必要なのです。

「雑念が浮かんで(呼吸に)集中ができない!」と嘆く人が居ますが、実は雑念が浮かんでくるのは、集中が出来ている証拠です。ただし私たちは雑念の誘惑に囚われることが大好きなのですね。雑念の誘惑を構わず、それに囚われずに「お腹の息」に注意を向けるという単純なことを繰り返せば良いだけなのですが。

集中が深まれば深まるほどに、脳(エゴ)は繰り返しその人にとって切実な雑念妄想をもって、集中を妨げようとします。雑念と、「いき」(呼吸)に向かう意識との間に起きる葛藤の高さこそが、深い集中の証拠なのです。どんな魅惑的なあるいは驚異的な考えや妄想が浮かんできても、繰り返し「いき」へと注意を投げかけ続ける。その先に何があるかは考えない。雑念・妄想がやって来ては、お腹に注意を戻す。この繰り返しが『集中』です。

こんな『集中』を繰り返す結果、脳(エゴ)の支配に囚われることのない自由が、少しずつではありますが、自然に私の(からだの)中から育ってくるのです。天衣無縫、囚われのない行動と発想が私のものとなってくるのです。「いのち」の解放です。

雑念や思考を嫌い「無・無心」や「空」になること、或いは「光になる」ことを、自己に強いる人を良く見かけますが、それは大きな間違い、勘違いです。そんなことをしていては、病気になるのが落ちです。妄想や雑念を消し去るとは、心の働きを圧殺すること脳自体を苦しめることです。

むしろ雑念や思考は、集中の深まりの証拠、あなたの向かう方向は正しいのですと、脳がにぎやかに教えてくれていると考えることができます。

仏教でいえば『煩悩即菩提』ですね。悩みや苦しみ迷いがそのまま自由自在であるという体験。煩悩と菩提、雑念・情念と息・肚との間の往ったり来たり、その葛藤の中、その循環運動の中に『生きている』と言うことは在るようです。

思考や感覚・イメージに惹かれたら、それをどうこうしようとし始める前に、間髪入れずに忘れた「いき」に注意を戻す。誰にでもできることです。

でもやってみると結構大変。人は妄想が好きですからね。妄想の中ではどんなことでも叶うと思えてしまう。妄想の中ではどんな言い訳も肯定される。或いは問題解決に地道を挙げるのも、妄念です。

何ものにも囚われることなく、自由にのびのびと生きていきたいと望む方は、どうぞ「いき」のレッスン(坐禅の呼吸)を、やってみてください。

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ここでは、お腹の呼吸(丹田)への『集中』を例にしていますが、このように自らの内部に向かう集中と、他者や外部に向かう集中とは、全く同じです。

『集中』によって、他者や対象物が、脳のフィルターを介さずに直接にその本来の姿を、繰り返し新たに見せてくれるようになるのです。「いまここ」に世界が新たな意味を持って繰り返し現れて来てくれる。

学校での黒板への集中は、自らの心と脳を縛り、発想の自由を奪い、病を深める集中です。それを集中だと思い込んでいる人が多くいます。本当の『集中』とは、私たちに発想や創造、行動の自由を与えるものであることを、知っていただきたいと思います。

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私は、月に二回ほど坐禅をしています。と言っても、友人が主宰している「マインドフルネス実践会」に行って、「坐らせてね!」とお願いして、マインドフルネスのことは全く構わずに、自分のために坐を組みます。

30分くらいの瞑想時間が2回組まれているので、友人の講義やファシリテートはまったく無視して、ただ自分の呼吸に注意を向けるのです。自己流なので坐禅というのも憚られるのですが、胡坐を組んでお尻に座布団を敷いて、お腹の息に注意を向けるだけ。

通い始めて、もう3年くらいになりますが、これがとっても面白い。普段はレッスンに来てくれる人と一緒に「からだ」のことで四苦八苦していて、自分のためだけの時間が取れないのです。ところがここでは、まったく人のことを構わないで、自分の為だけに時間を取れる。

ひとつには、放っておくとズルズルと流れ去る日々に句読点を打てる。リセットして、また次のクールを新鮮に過ごせるのです。

そしてこれは何より面白い発見ですが、坐るたびに自分の「からだ」の印象が新たなのです。2度と同じ体験がありません。

じっと坐って息をしているのだから、外から見れば、何も変わらないように見えるのですが、30分×2回の坐の中、自分の内側で体験される印象は毎回異なり、同じ坐というのは一度もありません。

だから、「またか坐るのか~!」というのが一度もないのです。3年も通っていても全く飽きることがない。「からだ」は留まることなく常に変化を続けているので、当然と言えば当然のことかも知れませんが。

先日など、坐ったままで居眠りをしていました。電車に座ってコックリするのと違って、胡坐をかいて坐ったままで、微動だにせず眠っているのです。目覚めたり寝入ったりの繰り返しですが、坐ったままそれをやっている。「こんなの在りか?!」あとから自分で呆れていました。

まあこれは極端な体験ですが、坐を繰り返す中では、僅かであっても必ず新たな体験があるのです。それを細かく書き出すことはここでは避けますが、繰り返すことで姿勢も変わっていきました。先に書いたような『集中』を繰り返す結果として「からだ」が変わっていくのです。

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「からだとことばといのちのレッスン」では、このような『集中』の体験を大切にしています。本当の集中によって、かけがえのない本当の、ひとりひとりの個性を育むレッスンです。
(瀬戸嶋 充・ばん)

【Facebookへの前書き】
言葉で説明するのが難しいのが『集中』です。けれども何とかしなけならないと私は思っています。とても大切な言葉に関わらず、世間では、誤った理解が大手を振っているようですす。もう少し分かりやすく伝えたいとは思うのですが、いまはこれで精いっぱい。『集中』という言葉への一般的常識的な誤解は、人間の持つ自由な発想力・想像力に蓋をします。生命力をも閉じ込め奪ってしまいます。恐ろしいことです。納得いくまで繰り返し言葉にすることに挑戦を続けなければなりません。もちろん「からだとことばといのちのレッスン」の場では、こんな『集中』が実践されているのですが。

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