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2017年11月16日 (木) | Edit |
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かつて、こころの浮き立つ「声」を聴いたことがある。その人の声を聴いているだけで、私自身のこころの底から、息の温もりがフワリと湧きあがって来る。自分のからだとこころが開け放たれて行く。自分の顔の表情も明るく開かれ、思わず微笑みが浮かび上がってくるのが分かる。恩師、竹内敏晴の「声」によってである。

以来、残念ながらそのような「声」に出会ったことがない。竹内が東京を離れ名古屋に移ったとき、東京に残された私にとって何が寂しかったかと言えば、あの「声」が聞けなくなったことであったと、今になって分かる。

竹内以外の誰かの話でも、話の内容を聞いて、その明快な考え方(論理)に感心することがある。語られる体験談に感動して聞き入ることもある。けれども自らのこころの底、からだの奥底――それは意識の届かぬ「いのち」の領域なのだろうが――を沸き立たせ、聞き手のこだわりを解き放ち、無心に話の世界(内容)へと、私を引き入れ夢中にさせる。そんな話し手と、その「声」に出会ったことは、以来ほとんど無い。

私は、そんな「声」を求めてからだとことばのレッスンを、繰り返して来たようだ。

明快な論理や知識を語るには、聞き手にとって言葉の意味内容、つまり何を言っているかが分かれば良い。「声」が問題となるのは、その大小と発音の明確さくらいのものである。マイクロフォンと活舌のトレーニングがあれば、何とかなる。

聞き手を感動させるには、語り手の心の動き(気持ち)をそれらしく誇張して「声」に乗せる。温かく優しく胸にしみる声、悲しく胸を詰めた声、喜びに息が弾む声、怒りに震える声、いわゆる、言葉や文章のニュアンスを「声」に乗せ、再現する。これも身体を意識的に操作することで、可能である。身振り手振りを交えるのも、その延長にある。

どちらも、発声器官と呼吸の操作なので、その方法=「声」の使い方を、技能としで習うことが出来る。

これらの「声」は、話し手から聞き手へと、その距離を隔てて、耳や、からだに響き、思考や心の戸を叩き、話の内容や情感を私に届ける。話に耳を傾ける私にとって「声」は外部からやってくるものだ。

竹内の「声」には、この距離が無い。話し手と聞き手を隔てる、例えば、講演者と聴講者、先生と生徒、カウンセラーとクライアント、医者と患者などなど、それぞれの立場を隔てる空間的或いは心理的距離が無効になってしまう。

竹内の「声」はというと、説明が難しい。それを聞く者にとって、竹内の声は向こうからやってくるものでは無い。竹内の「声」(ことば)が自分の中から聞こえてくると言えばよいだろうか。話し手も聞き手ももろともに「声」に浸されるというか・・・。

そういえばこんな体験があった。スピリットキャッチャーという楽器の演奏を聞いた時のことである。割り竹をしならせて、弦を緩く張ったものである。和弓を80㎝くらいに縮めた物と言えばよいだろうか。それを空中に泳がすと、弦が空気を孕み震えだし、ブーンという低い音を発する。古くからの民族楽器に想を得て作られたものだろう。

その他にチベッタンベルやお鈴(りん)、鉄琴などと共に演奏するのを、屋外の芝生に寝転んで聞いていた。眼を閉じてその複雑微妙な調べに耳を傾けていると、不思議なことに音楽が自分のからだの中で鳴っているのである。音楽は奏者の方向から聞こえてくるという常識が覆えされた。

山本安英さんという女優の話を聞いたことがある。戦前戦後を通じて新劇の旗手として活躍し、演劇の世界では、名実ともに認められた大女優である。

その舞台を観た人の話であるが、山本さんが舞台に登場すると、観客は彼女から眼が離せなくなると言う。眼が、心が、自分が奪われるのである。山本さんという人は、小柄で細面のうりざね顔で、特にスタイルが良いわけでも美人でもない。外見上はスターというよりもどこにでもいる、おばさんである。美形とは言い難い。

ところが観客は、彼女が舞台に立つなり私という実感は消え去り、山本さんの演じる戯曲の登場人物の一喜一憂を、我を忘れて直接に体験するのである。彼女の演技を通じて、観客自らが舞台という虚構の世界に踏み入り、物語の世界を体験するのである。

現在のエンターテイメントのように、舞台から観客へとメッセージや演奏を、浴びせた倒すようなこととは、根本的に表現のもつ意味が異なるのだ。

私が私淑していた、哲学者であり教育学者であり、宮城教育大学の学長退任後には、全国の小学校を回って授業行脚を続けた、林竹二の授業の逸話にもこのような「声・ことば」の不思議が語られている。

南葛飾高校定時制での普通授業。林自ら一教師として生徒の前に立ち授業をしていた。見学者や教員の立ち合いは無い、林と生徒だけの授業である。南葛飾高校定時制は、既成の学校制度に適応できない生徒たちを受け入れて、教育の真価を問う実践をしていた学校である。俗に言うゴンタや落ちこぼれが通う学校である。

教壇に立って、声を張り上げることなく、ぼそぼそと語り続ける林に対して、生徒たちは勝手な態度で、後ろを向いたりおしゃべりをしたり自由に振る舞い、前を向いて背筋を伸ばして黒板に集中するというお決まりの授業態度からは程遠い。ガヤガヤワサワサと落ち着きのない教室風景である。担任の先生が、心配になって廊下からこっそりのぞいていたそうだが、生徒たちの勝手な振る舞いに、これでは授業は成り立たないだろうと思っていたようだ。

林竹二は授業を終えて、生徒に感想文を書いてもらう。生徒の感想文を持って自らの授業を検討・検証するのである。生徒に自分の授業が通ったかどうかを吟味する。この時も、感想文を生徒に書いてもらった。そしてそれを読まされたクラス担任は、生徒の頭や心の中で授業が成り立っていたことに、驚かされたのである。

林竹二の何が授業を成り立たせていたか?これも大きな不思議である。

これらを思うとき、私は「無声」の「声」を考えるべきだと思う。私たちは、耳に聞こえ心(=からだ)に響く声のみを「声」として、それによって言葉を組み立て他者に語ることを考える。声楽・ボイストレーニング・話し方教室・スピーチ法・感情表現などなど、意識に捉えることのできる、いわば「有声」のみを対象に「こえ・ことば」のことを考えている。

それは「声」と「言葉」の可能性を卑小化して考えることである。「無声」の「声」は、自他の壁を無き物にして、自他という近代的観念を超えて、人と人とが直接に一つの「いのち」を生きる喜びを探る手がかりを与えるだろう。「無声の声」によって紡がれる「言葉」こそ、人間同士の深い信頼を回復する手立てとなるように思う。

実は、このことはそう難しいことでは無い。近代化以前・文明開化以前には「無声の声」によって紡がれる言葉が、日々の営みの中に息づいていたと思う。近代化文明化によって、私たちの常識の外へと追いやられてしまったものだろう。どこかへ行ってしまったわけではない。鳴りを潜めているだけのこと。呼べば届くところで「無声の声」は私たちを待っている。ちなみに竹内の「声」はアッケラカンとした割れ鐘のようで、美声からは程遠い。語り口調は柔らかな江戸弁であった。

「無声の声」は、人間関係での有用性を求めて加工される以前の「声」と言っても良い。ありのままの声、裸の声、本来・本当の声・自然の声・息遣いとしての声とも言える。

私たちは自我の発達に伴い、天然の声を忘れる。環境や状況に応じて声を固める。それは天与の声ではない。一人一人の発声器官はそれぞれに形態が微妙に異なる。本来は一人一人の身体の個性に応じて、一人一人の個性的な異なりを持つ「声」がある。その個性が流れあい響き合うところに、「無声の声」の交響が起こり、いのちを沸き立たせる。ひとつの「いのち」の渦の中に私たちは身を浸すのである。

様々な個性が個性的でありつつも、ひとつの響きを生きる。個性が輝きつつも同時に自他の区別を離れて「ひとつ」に溶け込む。『祝祭』だ。

最後に。

以前、詩人の草野心平さんが、賢治の詩『永訣の朝』を朗読している、録音テープを聞いた。ガラガラ声の濁声(だみごえ)で、言葉を聞き分けることがほとんどできない。けれども私の「からだ」の内側をドシンドシンと巌で打つように、「私」という丸ごとの存在に揺さぶりをかける。まるで縄文の民が私の「からだ」に入り込んで、明るく雄たけびを上げているようにも思える。私の心底は破られ、大地の底と通底する。

賢治の詩に『無声慟哭』がある。「永訣の朝」と隣り合う、妹、とし子の臨終を謳った詩である。「無声の声」の成り立ちを求めるのが「からだとことばといのちのレッスン」。賢治の遺した「声」と「ことば」の中に潜り込むことに、「無声の声」に至る、ひとつの手がかりを私は観ているのだ。

【Facebookへの追記】
自分の本当の「こえ」を探している人に、お目にかかったことがありません。あり合わせの既成の声を、嫌いだとか気に入っているとか、小さいとか大きいとか、高いとか低いとか、良いとか悪いとか、勝手に判断しているだけで、それが自分の本当の声かどうかを考える人は居ないのです。
レッスンの中で自分本来の声が出たとき、自分の声では無いみたいだ!と、たいていの人が驚きます。これは自分の声では無い!と懐疑的になる人もいます。本来の「こえ」とは、人に媚びない声です。人の都合に合わせて体裁を作ろうことの出来ない裸の声です。一人一人に与えられた、天与天然の個性です。その声は、発すること自体の喜びと、明るい心底からの解放感を伴います。同時にその響きに接する、或いは声を聴く人たちの心とからだを明かるく照らし浮き立たせます。
「声」の可能性を開きたいと思う方は、レッスンにいらして下さいね(笑)


2018年2月10日~12日には、埼玉の秩父で合宿です。ご案内は、人間と演劇研究所HP https://ningen-engeki.jimdo.com/ をご覧ください。

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