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2017年11月12日 (日) | Edit |
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私たちは、闇雲に知識を求める癖があるようだ。自分が求める知識はほんの一握りなのに、学校などでは、一律に膨大な知識の習得を求める。

私の高校時代、倫理社会という科目があって、その副読本に様々な偉人の解説があり、ソクラテス(プラトン?)の肖像写真が載っていた。つまらない授業中、その写真に髭を書いたり髪の毛を逆立てたりして遊んでいた。そのページに『無知の知』と書いてあった。この一言が今から見れば、私のこれまでの生き方に、大きな影響を与えていることは歴然としている。

ソクラテスが何をしたか、どんな実績を残したか、哲学とは何か、などの解説が副読本に書かれていたと思うが、さっぱり覚えていない。

やがて大学卒業の頃に、林竹二(哲学者・教育学者)を通じてソクラテスに出会うが、『無知の知』の意味が分かったわけではない。ただし『無知の知』の意味はつかみきれないままにも、とても身近な言葉と感じていた。

理系の夜間大学に通っていたが、授業が全く分からない。物理の方程式を暗記することは出来るが、その意味が分からない。暗記と、その内容が腑に落ちることとは、私にとって大きく異なる。身に着くというが、暗記したものは時間が経てば零れ落ちる。身に着けばそれを自在に使うことが出来る。暗記ほどにつまらないことは無い。テストの成績というご褒美は貰えても、私の学びへの意欲は、いっかな満たされることは無い。

そんな時に『無知の知』は私の身の内に飛び込んで、消え去ることのないものとなった。ただし内容が理解できて腑に落ちたのではない。言葉自体が、腑(からだの奥底)に落ちてしまい、私の考えを底から支えるようになったのだ。

お陰で、私は多くの知識を持つことに、興味を示さない。いわゆるインテリを鼻もちならいと、見下すところがある。むしろ地道な生活の中に根付いた、生きるための知恵に関心させられる。話をしたり、料理を作ったり、掃除をしたり、散歩をしたり、家族や子供と過ごしたりそんな普通の暮らしの中に、無限の深まりを持つ知恵が生きているように私は思う。

『無知の知』とは、人間としての生を底支えする、あえて取り上げ意識されることのない知恵であろう。それは「有知」に煩わされぬところ、つまり習得された知識を剥ぎ取ったところに残る、人間を人間として生かしめる無形の知識=「知恵」であろう。

レッスンもこれに倣う。「からだって何?」その答えが、私自身のからだと一つになるまで探求を続けることを繰り返してきた。

例えば『野口体操』の「逆立ち」。天地に浮かぶように空間に溶けるようにフ~ワリと立つ。一切の力みが消え、水底から海藻が水面に向かって立ち上がるようだ。体育で習う逆立ちとは見た目は同じでも、意味するところが全く違う。意識的に身体をコントロールすることを放擲して、「からだ」が立つべくして立つ。努力はいらない。

私は以前より、体育で習う逆立ちは出来ていた。そのため逆立ちをすると、無意識のうちにバランスを取ろうと身体を緊張させてしまう。頑張り癖が付いているため、逆立ちをした時に力が抜けない。『野口体操』の「逆立ち」にならない。

何度やっても、自分が出来ているという実感を持てない。『野口体操』の逆立ちの原理や説明(=新たな知識)には納得していても、実際には過去に身に着けた体育の逆立ちのやり方(=既成の技能・知識)が私の「からだ」の自然の在り様を妨げる。

『野口体操』の「逆立ち」と私の「からだ」がひとつになるまでに、7年の月日がかかった。と言っても特別に努力をしたわけではない。自らレッスンを指導する合間に、徒然に繰り返してはいたが。それがあるとき突然できたのだ。というよりもやってきたと言ったほうが良いかもしれない。知識と意識と「からだ」がひとつになるとき、それらの区別は解け去ってしまう。浮かんできた言葉は「ああこれか!」のひと言である。「逆立ち」という言葉と「からだ」がひとつになるとき、「私」という実感は消え去り、世界を満たす空気そのものになってしまうような感じだ。言葉にしがたい喜びがある。

おそらく、外から見れば、赤ん坊が初めて独り立ちをした時の、なんとも頼りなく、それでいて新たな世界に向かって開かれた姿に似ていたことだろう。

知識と「からだ」がひとつになる例として私の体験を取り上げたが、少々分かり辛いかもしれない。そのうえ、知識と「からだ」がひとつになることを、現代人はあまり大切にはしていない。そんなことより、新しい知識を次から次へと消費することに躍起になっているように見える。

『無知の知』は、「知識」と自己の分離を許さず、自己の本性と知識を結びつけることを、それに向かいあう一人一人に迫る。自らの本質に属することのない借り物の知識は、引きはがされ、無限に続く新たな自己の再生へと道を拓く。

あるいは、ひとつの知恵をつかむことが、生きるためのすべてを知ることにも繋がる。日本語では、肚を据える、腑に落ちるとも言う。頭でもない胸でもない肚である。肚や腑は、腹=いのちの根源と知識がひとつになることを、古来日本では尊重してきた。それを「知恵」と呼ぶ。「知恵」はインテリの特権ではない。生活者にも、否、より善き生き様を願う生活者にこそ啓かれている。

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何やら小難しいことを書いていますが、レッスンの実践はシンプルで誰にでも分かる内容=実技を主にしています。
定例会・WSなど「からだとことばといのちのレッスン」のご案内は、人間と演劇研究所ホームページ  https://ningen-engeki.jimdo.com/ をご覧ください。
2月10日(土)~12日(月)埼玉県秩父大滝でのWS合宿を予定しています。興味をお持ちの方はご連絡ください。

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