FC2ブログ
--年--月--日 (--) | Edit |
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2017年08月13日 (日) | Edit |
DSC_0129ed.jpg

 笛に息を吹き込み、私たちは音色を紡ぐ。

 「いのち」は息の「ちから」なのだから、「いのち」が私たちに息を吹き込み、音を紡ぐ。「私」自身を笛として、吹き手に差し出すのが歌を歌うこと。言葉を語ること。踊ること。

 吹き手は「いのち」、その息づかい。歌や曲や詩や踊りの言葉に伝えられた、太古から蓄えられた記憶の混沌=地球、大いなる「いのち」が吹き手、奏者だ。

 天地のいきが、あるいは、時空を超えた息吹が自在に私を吹き鳴らしてくれるよう、私たちは私たちの「からだ」を整え、「いのち」に明け渡す。私たちが良き笛になれば、「いのち」が闊達自在にそれを吹き鳴らす。「祭りだ。祭りだ!」

 なぜ歌うために、練習が必要なのか?言葉を語るために、技術を磨かなければならないのか?そんな必要はない!

 大切なことは、身に着けた無理=自然を支配としようとする自我の傲岸不遜をそぎ落とし、素直になればよい。謙虚になればよい。虚飾をはぎ落し、素直に真っすぐに吹き抜ける笛になれば良い。天地はそこに押し寄せ、我れ先に私たちと言う笛を鳴り響かそうとするだろう。

 イメージとは無形の存在である。だからこそ様々な音色に姿を変え、豊かに私たちの心を彩る。「いのち」はイメージの母胎である。私が私であろうとする、その我心は、私と言う笛が自在に鳴り響くのを妨げる。赤子の時のような柔和な笛に戻ろう。息をよく受け入れられるよう、「からだ」を開け放とう。

    *    *    *

 先日は、「こえ」の身体各部への共鳴・共振をひらくレッスンだった。眉間に声を響かせる。おでこ、頭頂、後頭部、口腔、喉、うなじ、胸、腹、脚、細かく見れば、もっとたくさんの共鳴部分(部位)があるだろう。声音に合わせて、様々に響きを奏でる「からだ」の豊かさ。様々な楽器に相当する響きを、私たち一人一人が「からだ」に備えている。ただし、備えているだけでは「からだ」は鳴り響くことがない。

 多くの人が、自分の本当の「こえ」を知らない。ありきたりの声を自分のものとしてしまい、果たしてそれが自分の「本当・本来の声」(=「こえ」)と呼べるものかどうか、自身に問う体験を持つ人はほとんどいない。声の問題に答えるレッスンはここから始まるのだ。

 身体各部、身体全体の共鳴を呼び覚ましていけば、その人なりの「こえ」が心地よく響き始める。無理な力みや緊張は必要がない。楽々安々と声を発することが出来るようになる。

 ただし、現代人は「からだ」の感覚が鈍い。意識(頭)ばかりが良く働き、「からだ」を省みることがない。容姿を整えるのは得意なようだが、容姿の内側、身体内部の変化に対する感覚能力は、厚ぼったいカーテン越しに眺めているようなものだ。

 声を出すときの「からだ」のこわばりを解き、「ほら、声の響きが変わったでしょう?」と問いかけても、何を聞かれたかと言うようにポカンとしている人が、案外に多いのだ。一緒になって、辛抱強く繰り返し聞き分けていると、「あっ!」という開けっ放しの顔になる。共鳴部位が変わることで、声の響き(音質・体感)が変わるのが分かったようだ。

 共鳴のポイントをひらいていくと、「からだ」の中が空っぽになったように感じられてくる。体表の輪郭は柔らかく繊細になり、声の振動を受け「からだ」の内側から外部に向かって「こえ」が自らあふれ出す。声を出そうとする意識と努力は、必要がなくなる。歌を歌い言葉を語れば、そのリズムと声音が「いき」の弾みを生み、目くるめく息の変化が、私たちの「からだ」を利用してイメージを花開かせる。

 天然自然から与えられたこの「からだ」。一人一人が異なる響きを持っている。それが響き合って互いを開放し、世界を生み出すのが、群読や合唱の喜びだろう。正確に音声を発することなど二の次のことだ。響き自体が、私たちの「からだ」を調律していく。

 声・ことばの響きは、私たちの「からだ」の深みに眠る共有のイメージを呼び起こす。感動を湧きあがらせるのだ。感動の海の中に人々を浸し、人と人との垣根を洗い流す。これは演劇もダンスも朗読もみな同じ。

    *    *    *

 「からだ」のこわばりを解き、共鳴のポイントをひらいていくと、「からだ」の中が空っぽになったように感じられてくる。体表の輪郭は柔らかく繊細になり声の振動を受け、「からだ」の内側から外部に向かって「こえ」自らがあふれ出す。声を出そうとする意識と努力は、必要がなくなる。「私が、声を出す」のではない。「声自体が、私の中から外界にむかって踊りだす」のだ。

 歌を歌い言葉を語れば、そのリズムと声音が「いき」の弾みを生み、目くるめく息の変化=「いのち」が、私たちの「からだ」を利用してイメージを花開かせる。

 天然自然から与えられたこの「からだ」。一人一人が異なる響きを持っている。それが響き合って互いを開放し、世界を生み出すのが、物語ることの喜びだろう。正確に音声を発しようと苦労することなど二の次だ。響き自体が、私たちの「からだ」を調律していく。

    *    *    *

 言葉を語ることへ、歌を歌うことに、人に話をするときでさえ、私自身は長年、言葉を語ることへの不自由さを抱えてきました。「自分でちゃんと話さなければ!」と、いつも思っていて、人と話すたびに「ちゃんと」がついて回っていました。「ちゃんと」=「正しさ」ですね。

 その「正しさ」はどこから来たものなのか。もともと自分の中にあるものではありません。家庭や学校・社会が言葉を話すことの「正しさ」を私に求め、その期待に応えることに、私は一生懸命になっていたのでしょう。意識(無意識)の中に、「正しさ」が刷り込まれていたのでしょう。また「正しくない」自分が、恥ずかしかったのでしょう。

 いまは言葉を語ることが、喜びへと変わっています。言葉を語る意識的な努力をする替わりに、言葉が自由に活躍できるよう、自分の内側から溢れる言葉に「からだ」を明け渡すことが出来るようになったからです。「ことば」自体が、自意識に縛られることなく、「私」を語ってくれます。「ことば」のおかげで、他人との交流によって「私」が豊かになっていくのが分かってきています。

 「先立つものに心を砕け、結果は自ずから生まれるだろう。」ロシアの演出家スタニスラフスキーの言葉です。結果(舞台上の成果)は「自ずから生まれる」つまり、「どこからともなくやってくる」ものです。私たちに出来ることは、それがやって来てくれるよう、状況を用意することです。「先立つもの」とは「からだ」です。「からだ」を耕し調え、天に祈りつつ「ことば」の訪れを待つ。農耕の時代に還ることのようですね。


関連記事

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。