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2017年07月27日 (木) | Edit |
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合宿を終えて、参加メンバーが感想を書いてくれました。
私(せとじま)がFacebookに投稿したものも、合わせて掲載させていただきます。

【琵琶湖合宿を前に】(せとじま・ばん)
「あなたの時間を手渡すつもりで、相手に関わってください。」とレッスンの中で話しました。次から次へ、先へ先へと、人と人とのかかわりが、とても忙しくなっているように感じています。
手際よく短かい時間の中で結果を出さなくてはならないと、多くの人が思い込んでいるのでしょう。それが「からだ」=行動に現れている。相手のために義務を果たそうとして、息を詰めて頭の中のプランをこなし、忙しないことこの上なしです。
相手の表層を次から次へと滑っていくような、人と人との関係が見えてしまいます。
相手の「からだ」からは「何もしてくれなくていいから、ゆっくりと一緒にいてください」という内心の声が響いているのですが。
日本語には「日にち薬」という言葉があります。「日にち」=時間というのが、何よりの薬であり栄養でありちからなのだと言うことでしょう。
エンデの「モモ」は、何も持たないけれど、時間だけはたっぷり持っている少女のお話です。時間は、与えれば与えるほどに湧いてくる泉のようなものかもしれません。
琵琶湖の他には何にもない地、和邇浜での二泊三日の合宿ですが、琵琶湖は歴史の時間の堆積でしょう、琵琶湖の湖水も力を貸してくれるのです。
レッスンは、個人の「からだ」中にこわばりとして眠っている時間のエネルギーを開放します。それを「いまここ」に集めて、生きた「物語」の時間を再生するのです。
こんなことを書いていると、合宿がとても楽しみになってきます。
まだ3名ほどの空席があります。どうぞ遊びに来てください(笑)

【琵琶湖合宿を終えて】(せとじま・ばん)
先日、二泊三日の琵琶湖合宿、参加者全員で舞台を立てて、賢治童話「鹿踊りのはじまり」を読みました。賢治さんの「ことば」の力に改めて関心(感心・歓心)しました。物語の「ことば」が、それを語る私たちを夢幻の世界へと引き連れていきます。人と人とのつながりを阻む壁=自我・身構え・緊張を超えて、皆が一つのいのちを生き始めます。そこに物語の光景が色とりどりに浮かび上がってきます。それは一人一人の「いのち」の中に秘められた彩りでもあります。これが「からだとことばといのちのレッスン」の向かうところ、祭り(祝祭)の創造です。普段の定例会は短時間の繰り返しではありますが、一人一人が日常という頸木を超えて「いのち」の自由の中に、一歩を踏み出して行ってほしいと私は願っています。

【まるで音楽だった】(こいさん)
「からだとことばのレッスン滋賀合宿」が終わった。竹内レッスンと野口体操がベースにあるレッスン。
今回は二日目からの参加。午前中、からだを揺らしてストンとその輪郭を確かなものにし、宮澤賢治の「鹿踊りのはじまり」を10数名のみなさんとともに声に出して読んでいった。
一場面、一場面、情景が立ち上がってくるかを丁寧に確認しながらの朗読。登場人物を立て、どこをどう動くかを確認し、読んだ最中、その情景は浮かんできたか、舞台上の出ている人が繋がりあっているか、そういう作業を進めるうちにバラバラだった声にリズムが生まれ揃ってくる。
賢治の文章は音楽だ。
ことばを発して場のリズムが動いてくる。
作品中、百姓?の嘉十(賢治ではないだろうか)は、突然、鹿の声が聞こえて、鹿踊りを目撃する。
嘉十視点から鹿踊りをみていて、何ともおかしく、そのかけあいに笑ってしまう。
そして鹿になって踊り歌う。
踊って踊って鹿になっていく。
鹿になって、ぐるぐるまわり、歌を歌ったその時に、はっきりと「ぎんがぎが」にまっ白な火のように燃えたすすきの情景がみえ、北から吹く冷たい風を感じた。
何度も何度も声に出しながら、ことばに出会っていく。
最後の一列に太陽を向いて歌った六匹の鹿の歌にふるえた。
ふりかえりの時間に「一緒に読んだみんな、お互いに命に触れ合ったんだね」と言葉をおくっていただいた。
この場所では、自分たちにはすでに素晴らしいものがそなわっているという前提がある。足りない自分であり稽古をして技術を身につけていく。ということではなく、本来もっている素晴らしいものをどう引き出し立ち上がらせていくかというレッスンだと感じている。
その過程で、自分自身や他のみなさんの声やからだに出会っていく。これはあったかくて勇気が出る。
みなさん、二日間、ありがとうございました。

【雨ニモマケズ】(きよさん)
雨ニモマケズ 風ニモマケズ…
昨日は、今回で3回目となる、からだとこころといのちのレッスンに参加しました。
琵琶湖で泳ぎ、楽しんで人たちの声を背にして、私も泳ぎたいという気持ちをおさえつつ、築30年以上は超えているであろう、昔懐かしい日本の畳の部屋にて、9名の参加者のみなさんと、行われました。
からだに意識を向ていく
頭、腰、背中、腹、足の裏…
普段どれほど感覚は無自覚なんだろうか…
そして、いきを吸い、いきを吐く。
その度に、少しずつからだの感覚が研ぎ澄まされていく。
また、微細な振動が全身に広がっていく。
そうしたことを繰り返していくうちに、気づくとからだはゆるんでいる。
気づくと、なぜか、こころもゆるんでいく。
初めて会う方なのに、なぜか、安心し、ゆだねている自分に気づく。
とても不思議な感じ。
そして、からだから、声を発する。
力んでいては、何も響かない。
肩が上がり、緊張がからだを走る。余計に響かない。
すーっと、力を抜き、足の裏で呼吸をするように大地とつながり、頭の先はひっぱられているような感覚で、天とつながる。
不思議と腹から声がでる。
いや、出るんじゃない。なんか、なんか、あふれて出ていく。
まるで私の声じゃないかのように。
そんな状態で、雨ニモマケズを朗読する。
最初はうまくいかない。いつもの癖が出てくる。
さらけ出す怖さ、何かが自分を留めている。
一生懸命やろうとするほど、うまくいかない。
腹に意識をおき、腹から声を出す。

なんか、なんか、違う。
からだをつつ抜けるかのごとく、声が響き渡る。
気持ちいい感じ。
わたしのいのちがよろこんでいる。
そんな不思議な感じ。
からだとことばといのちが紡ぎあう。
何ともことばにし難い。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ

サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

【ひととき】(かつこさん)
朝、起きると、山登りしたあとのようなふくらはぎのけだるさ➰あっそうか、鹿になって、野原を飛んだり、跳ねたり、踊ったりしたなぁ~
一昨日、人間と演劇研究所の瀬戸嶋伴さんによる、“からだとことばのワークショップin琵琶湖”に参加してきたのでした。
からだ…ってなに?
ことば…ってなに?
日常の中では置いてきぼりにされるからだ感覚とゆっくりと向き合っていく。
ゆれる、ながれる、あったかい、からだとの対話が始まる。
そこから、ことば・・・ ゆるやかなからだから発せられる声は響き合い、徐々に息づいてくる。ずっしり、どっかりと、すっきりと。
宮沢賢治の物語を読み演じていくと、私とからだとことばとを繋ぎ、その場に生をいれてくれるのでした。
意図せず、つながりあう、響き合う、独りでは決して味わえないひとときでした。
みなさんに感謝です。

【その後】(かつこさん)
ほんとに暑い夏ですね~✨蒸発してかげろうにでもなりそうです(笑)
伝達事項はFB やってない者ふたりいますので私が伝えますね。
2回合宿参加して、瀬戸嶋さんのこのWS の素晴らしさを感じています。
からだとことばとの繋がりと賢治の世界の中に引き込まれたとき、人と人の間の防衛?緊張?の壁がいつの間にか外れているのに気づきます。
ほんとにどっちが現実なんだろう( 。゚Д゚。)と思うくらい楽しくなります。
それが、少し伝わっているのか、そこに気づく人が周りにいるからなのか➰もっと、振動していきたいなぁと思います🎵

【以上感想です】

「からだとことばといのちのレッスン」は大変シンプルなものですが、どうしても言葉で説明することが難しいのです。こうしてメンバーの感想を並べていくと、各人の体験と感想に包み込まれるようにして、レッスンの姿と息づかいが浮かび上がってくるように思います。以前、詩人の方のお話を聞いた覚えがあるのですが、「詩情(ポエジー・リアリティー・詩魂)と言うのは、手を出して直接に掴もうとしてもダメです。詩の言葉でそれを柔らかく包み込むようにして、表現するのです」と言っていました。どうやらレッスンも説明的な固い言葉では捉えることが出来ない、いのちの風の舞い踊る時空のようです。

賢治さんの物語が湛える深いリアリティーに触れるのには、私たち一人一人が自分と言う言葉に捕まえられずに、どこまで手ぶらになって物語の言葉を発し、生きることが出来るかどうかにかかっているようです。

「私(せとじま)がやるのでではなく、レッスン自体がレッスンをするのが、レッスンである」「いきなりとは息生りである」など、二泊三日の合宿で、なんとも不思議な言葉を発見しましたが、これはまたの機会に文章にしたいものです。

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