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2017年06月18日 (日) | Edit |
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  「からだとことばといのちのレッスン」

 「からだ」と「ことば」の成り立ちを、「いのち」の側から考えていかなければならないときが来ているように思います。

 私たちは、人間(自意識)の側から「いのち」を見、「いのち」について語ることを当然のこととしてきました。

 そこには、私たち人間自身も、自意識も含めて「いのち」の現れであるという考えが、抜け落ちています。「いのち」は自意識に従うものと見られているのです。

 このような見かたが、「いのち」の可能性を、限られたものへと落とし込み、未来への不安と閉塞感を生み出しているように思います。「いのち」への信頼感の上に安心や喜びは成り立つはずなのに、自意識がそれを許さないのです。

 自意識を中心に据えた人間観に頼ることは、いまでは限界を迎えているようです。自意識がその座を「いのち」に譲るときが来ているように思われます。

 「いのち」とは、絶え間なく変化し続ける働きです。そのために「いのち」は、目で見ることも、耳で聞くことも、鼻で匂いを嗅ぐことも、舌で味わうことも、手(からだ)で触れることもできません。意識(ことば)で捉えることもできないのです。

 ここに「いのち」に関わることの難しさがあります。自意識は眼に見え(想像・観念・妄想を含む)、あるいは手に触れる得るものを基本に置いて、ものごとを理解しようとします。ところが「いのち」は、そのような捉え方の網の目にはかからないのです。

 おそらく、これまで常識としてきた、自意識中心のものの見方や考え方とはまったく異なる、「いのち」とのかかわり方を、これからの私たちは見出して行かなくてはならないのでしょう。

 その答えは、どこか自分たちの生き方を離れたところにあるものではないようです。表層的な自意識の眼差しに覆いに隠された、私たち一人一人の中に生きて働く「いのち」の在りようを真摯に見つめることが、これからの始まりのように思っています。

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 「からだとことばといのちのレッスン」は、林竹二・野口三千三・竹内敏晴の実践に多くを負っています。すでに皆、故人となりましたが、「いのち」の側から人間の在り方を問い続けて一生を終えた、私の師匠たちです。

 野口体操では『からだに貞く』(野口三千三著書名)と言います。
「貞(き)く」とは、「いのち」に尋ねることです。「人間には、ものごとの良し悪し(真理)を決める能力は与えられていない。ただ、問い続けることだけが私たちに許されることである。答えは、真摯な問いかけ(貞く)に応じて、「いのち」の側から与えられる。」との考えが、野口体操の実践を貫いています。「からだ」の動きを身体内部の感覚やイメージの変化としてとらえ、「からだ」の動きの本質をくり返しあらたに問い続けることが、野口体操の実際です。「いのち」に寄り添う体操といってよいと思います。

 竹内レッスンでは『ことばが劈かれるとき』(竹内敏晴著書名)。
「劈(ひら)かれる」とは、「いのち」の側からの促しによって、自意識の壁を超えて、あらたな自分が表現され、芽吹き生き始める。竹内敏晴は、「竹内からだとことばのレッスン」に於いて、「いのち」の直接の(直(じか)の)現われとしての「からだ」と「ことば」を終生かけて求め続けました。竹内は「いのち」への信頼を、絶対的に肯定していたのです。

 林竹二は、『若く美しくなったソクラテス』(林竹二著書名)。
ソクラテス、プラトンの哲学者・教育者として教育の問題を考究し、子供の「いのち」の可能性を問い、自ら日本各地を回り授業実践を繰り返しつつ、教育や教師の在り方に変革を求めた人物です。教えるものと学ぶものと間に成り立つ「いのち」の受け渡しを「若く美しくなった」と表しています。

 師匠たちとの出会いから36年の日々が流れました。1988年に私は師から独立し、人間と演劇研究所を立ち上げ、彼らの実践に学びつつ、これまで「野口体操」と「からだとことばのレッスン」の指導を続けてきました。

 来年には人間と演劇研究所創立30周年を迎えます。師匠たちの「いのち」から私の「いのち」へと受け渡された課題を明らかにすることに、30年の日々を費やしました。師匠たちの「いのち」の風に後押しされながらこれまで進んできましたが、遅れ馳せながらようやく私の中から「いのち」への眼差しが劈かれたようです。これからは「からだとことばといのちのレッスン」の名称のもと、この時代の中で、私なりの新たな実践の道を歩み始めることと思います。

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 「いのち」とは、「い」=いき・息・生き・活き、「ち」=ちから・地・血・霊力などの意味を合わせ、「いき」の「ちから」を表す日本語です。「からだとことばといのちのレッスン」は、「いきのちから」=「いのち」の現われとして「からだ」と「ことば」をとらえています。

 実際には、姿勢と「いき」の関係を大切にしています。「からだ」のこわばり(緊張)をほどき、「いき」の変化に繊細に反応し、自在に変容する「からだ」=「姿勢」を準備する。(野口体操‐いきと姿勢のレッスン)

 「いき」の赴くままに「からだ」を動かし、自意識を介さない「からだ」から「からだ」への直接の「うごき」のコミュニケーションを体験する。(野口体操‐流れあいのレッスン)

 「からだ」の隅々まで「いき」を通し「声」を発し、「いき」=「こえ」を体感する。(竹内レッスン‐からだと声のレッスン)

 「ことば」で他者と触れあう、響き合う。「いき」の深さと広がりの中に、他者の「からだ」に共鳴し感情やイメージを伴って現れきたる「ことば」と出会う。(竹内レッスン‐呼びかけのレッスン)

 コミュニケーションを、自分と他者(あるいは物)との「いのち」の流れ合いととらえれば、「からだ」と「ことば」に関する様々な出来事が、レッスンとして取り上げることが出来ると思います。日常的な料理や掃除・家事一般衣食住、学び、健康、スポーツや武道も、踊り、歌、祭りも・・・。「いのち」の側から見ることで、日常の生活や学びが新たな意味を帯び立ち上がってくることでしょう。

 「からだとことばといのちのレッスン」は、当たり前のことを日々当たり前に生きるためのレッスンです。日々当たり前のことの中に「いのち」の喜びを見出し、生きていること自体の静かな豊かさを発見していくレッスンです。「いのち」を主体として生きることの意味をみんなで問い続けて行きたいと、私はそう思っています。

 2017年6月16日
 人間と演劇研究所代表 瀬戸嶋 充・ばん

【ブログを更新しました】(Facebookコメントより)
瀬戸嶋充・ばんの旅立ちの宣言です。脳・神経系、つまり自意識が主導権を握っているから、世の中おかしくなる。「いのち」に立ち返り、新たな道を見つけていこう。私の反骨精神のあらわれです。

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