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2017年05月22日 (月) | Edit |
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 世間がミレニアム、2000年紀に沸いていたころのことです。

 私は、鈴木大拙さんの著作に出会いました。彼は、明治時代に米国に渡り西洋の人たちに仏教書の翻訳や禅の紹介をした人物です。私が読んだのは、禅や日本文化について英文で出版されたものを、日本語に翻訳したものでした。

 読んでいると、なにか心にスッと入ってくるものがある。内容を理解しようとしても、意味が分からないところが多々あるけれど、自分の解釈を挟み込まずに、ただ字面を追うように読んでいると、感動して涙が出てくる。ああこれだ!これだ!と文章に頷いたり、読みなれない漢文に居眠りをしたり。心が強く動かされました。

 なんでこんな文章に、自分が感動しているのか、全く見当がつつきません。読みなれない文章が多く、そもそも意味がほとんど分からない。

 大拙さんの英文を、日本語に訳したことに意味があるのだろうと私は考えました。彼は、英米文化という、日本とは全く異なる文化の中に、東洋思想並びに禅と日本文化を伝えてきました。明治時代にサンフランシスコの地で、お経や道教の文献の翻訳をして過ごしたのです。近代合理主義の西洋社会の中で、西洋の言語をもって、一見、前近代的と見られる東洋の思想(=ものの見方と考え方)を伝えようと奮闘した人です。

 西洋人に理解できるよう、彼らの論理や思考(言語)に則って著わされた文章が、月日を経て日本語に翻訳され、私の手元に届いたのです。それを読んで私は感動している。

 本の中で語られる日本の文化は、意識を介さずに、私の感性へと直接に訴えてきました。それに比べて西洋由来の文物は、壁を隔てて無理やりに自分のものにしなければと、いつも努力を自分自身に強いていたのでしょう。自分のものの見方考え方が、いかに西洋化して(されて)いたかを、このとき思い知らされたのです。

 (野に咲く花は言葉少なに春の訪れを私に告げてくれる。
近代的な知と技術によって品種改良を重ねた大輪の花は、私に大きな声で訴える。
私の美しさはあなたの物ですと語り掛けるよう。
大輪の花は、私の意識に訴える。私の脳に刻印を与えるかのように。
野に咲く花は、私の中にいつの間にか入り込み、揺れて微笑む。)

 これまで長らく、人生の中で抱えてきた違和感の正体が見えてきたような気がしました。西洋列強による世界の近代化・植民地化がもたらした文化の移入による変化は、私という存在を内と外(深層と表層)に分断してしていたことがわかりました。

 世間によってこれが素晴らしいと価値を認められるものが、私にとって大切なものとは思えない。高度経済成長と軌を一にするようにして育ったにも関わらず、私はその時代を牽引する西洋由来の価値観(合理主義)を受け入れられずに来ました。あるいは、それを自分とは関係のないもののように感じながら、これまで過ごして来たのです。大拙さんの著作を読むことで、西洋由来の思想や文化に価値を見出すことができずに来た自分を、発見することができたのです。

 その後、3年がかりで大拙さんの全集33巻を読破しました。相変わらず理解は届かないけれど、仏教には、私の心に直に触れてくる「何か」があると感じていました。実際に「坐禅会」に参加してみたこともあり、そこには私が子供のころから、学校や社会から学び学ばされてきた、ものの見方考え方とは全く異なる世界観があることを体感し、理解をしはじめました。

 とくに日本文化を支える大地性と身体性が、私の中に浮かび上がってきました。そしてそれまでずっと掴み切れずに来た、竹内敏晴・野口三千三の両氏が語る、「からだ」(漢字の「身体」ではなく、ひらがなで「からだ」と語る。「野口体操」と「竹内レッスン」のキーワードです)の意味が、おのずと観えてきました。

 それまでは、彼らの語るところを、私の意識の表層にのっかっているだけの、自分の中に根を張ることのない知識で理解しようとしていました。それは骨格や筋肉など近代解剖学の知見に基づいた「身体」への理解、物理科学による運動論、生化学からの医学的身体観、心理学の知識、等々、私が無自覚に頭に詰め込み、身に抱えていたものです。

 (私は物理科の大学を出ています。子供のころから大学を卒業するまでに、人並みに一生懸命そんな科学の知識を身に付けてきたのですが、まあ、「馬子にも衣装」みたいなものですね。馬子には馬子の生き方あるはずなのに、衣装が独り歩きしていたように思います。)

 以来、西洋由来の近代科学的な見方や考え方に囚われず、直接に「からだ」を観ることが始まりました。知識を介さずに直接に自他の「からだ」に関わることへと、道が開けたと言えます。そしてその足取りを導くように、仏教や東洋の考え方がレッスン実践への、行き詰まりを解いてくれる。仏教の考え方は、仏さんが答えを出すのではなく、自ら答えを求める者のダウジングロッド(方向指示器)みたいなものです。「そっちではないよ。こっちだよ。」と暗黙の裡に静かに語り掛けてくれていました。

 以来、私は自分の中に詰まった、近代的なもの見方や考え方(意志や頭脳の能力を第一義とする)を疑い、自分にとって一つ一つ確かめては手放して行くことをしてきました。その呪縛を一つ一つ切り離しては、自由になっていった、自分に還っていったともいえそうです。そのことで仏教の考え方の意味が身に染みてきます。自分の深層に隠されていた仏教の持つ考え方(感じ方)が浮き上がってきて、新たな観点が生まれてきました。

 竹内レッスンも野口体操も、西洋から移入されたものではありませんでした。私の師匠、竹内敏晴は江戸の名残の多い下町に育ち、学生時代は弓の達人でした。彼の度外れた集中力は、弓道で培われたものです。野口三千三は群馬の農家の出身です。彼は土に育まれ、近代体育を極め、それを超えて独自の体操を編み出しました。彼らのレッスンの実践と思想は、日本の風土、大地性を離れては成り立たないものです。

 それを私は、常識的な西洋的知見によって理解をしようとしていた。そこに、そもそも無理があったのです。

 こう言ってしまうと、西洋思想の価値に対する否定になってしまうかもしれません。もう少し丁寧に言うと、西洋思想を手放したといっても、それが消えてしまうわけではありません。生活していくために、世を渡って行くために、合理主義的な考えを理解することはできるのです。手放すとはしがみついていた手を放すことです。それに縛られない。思想や価値観に縛られないということが大切だと今では思うのです。様々な思想や価値観を持っていることに問題はないのですが、それに縛られてしまうと、物事を直接ありのままに見ることができなくなる。

 戦後の教育によって、西洋由来の思想や価値観が、絶対のものとして無自覚のうちに私の頭脳に刷り込まれ、私自身がそれに縛られて、合理主義的意識のフィルターを通してしか、物事が見れなくなってしまっていたのです。そこには自縄自縛があって、物事の本質をありのままに見る自由が、奪われてしまっていたのです。

 また、せっかく自分の中から育ちゆく個性的な考えがあったとしても、一般的常識的な価値観がその表現を阻害してしまう。これは東洋思想、もちろん仏教についても同じことです。それが縛りになって、現実を直視できなくなっては何の意味もないのです。

 多様な価値観という言葉が流行っていますが、多様な価値観を認めるということは、そう思う一人一人が、自分の思想や価値観の呪縛(しがみつき)から自由になるということがポイントではないかと思うのです。これは、キリストもブッダも同じことを言っているかもしれません。

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(以下Facebook補足のコメント)
【ブログを更新しました】
「自由」って何だろう。鈴木大拙さん曰く「今一般に使われている「自由」という日本語は、英語の「freedom」あるいは「liberty」からの翻訳である。どちらも「何々~の自由」つまり束縛するものが前提として在って、その束縛からの「自由」が「freedom」あるいは「liberty」である。けれども日本語の伝統や仏教の中の「自由」という言葉には、束縛・拘束からの解放というニュアンスは入ってこない」とあります。「自由」とは「自ずからに由りて」とも書いています。この「自」は「自我」つまり「私」ではない。「いのち」の働きそのもの=「自(おのずから)」に由りて、生かされ行動していくのが日本語の「自由」だと言っています。これは日々「いまここ」を生きることでもあるようです。私の師匠たち(野口三千三・竹内敏晴)は、「からだ」は「から(空・無・虚)」「だ(た・たち・立・経)」だ、などと言っていました。「身体」=肉体・ボディーではなくて「からだ」。これも「いのち」の働きを前提としています。それでは「いのち」とは何を表す言葉なのか?一つ一つの言葉の定義を見直していくことの重要性を強く感じています。そうしないと形骸化して中身の得体のしれない言葉が飛び交って、人間のつながりがが切り離されていく、そんな危惧を感じている今日この頃です。(せとじま・ばん)


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