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2017年05月12日 (金) | Edit |
2017-04-18 001ed

 逆から言えばわかりやすいと思いますが、新宿の雑踏を行く人たちの姿を見ていると、ほとんどの人が、意識が胸から上に揚がってしまっている。腰から下、下半身への意識がなくなってしまっています。

 道行くその姿は、隙を見せぬかのように、息を飲み込み胸と喉を詰め、顎を持ち上げ、まるで胸像が互いに人ごみの中を行き交っているような有り様です。意識を総動員して上半身で自分を表現しているのかも知れませんが、足腰は自動ロボットのよう。足元に個性や性格などありはしないしないと言う塩梅です。
 様々な履物に足を包みながらも、どれも同じような表情の足。足は物体としか見ていない。生き物ではない。ギクシャクとした足取りなど、誰も問題にしていません。足腰のことなど老人の問題で私には関係ないとでもいうように、街中を闊歩している姿が目につきます。

 前置きが長くなりましたが、新宿の路上を行き交う人の意識の置き処(自分)は、胸から上になってしまっているのです。時代の成り行きで仕方のないことかもしれませんが。

 この頃は「いきと姿勢のレッスン」を大切にしています。意識が上に揚がっているのだから、それを下半身に下げる練習です。
 胡坐(あぐら)をかいてお尻に座布団を敷きこんで、臍の下あたりに意識を置きます。
 息の出入りに伴なってお腹の中身が変化しています。内圧の変化というと難しいかもしれませんが、息を吸うのに伴って横隔膜が下降し、お腹の中の気圧が高まります。吐けば気圧が低くなる。

 お腹の皮が張ったり緩んだりで、誰にでも分かることですが、表面的な皮膚の伸縮運動よりも、お腹の中の感じが変化することに注意を向けることを大切にします。
 骨盤に囲まれた空間は、後ろは仙骨、横は腸骨、お腹の前側を囲む骨はありませんが、盤とは器ですから、恥骨や座骨も合わせて、ワイングラスの底のように骨盤は胴体の中身を下から支えているわけです。

 骨盤の中身の変化に注意を向け、呼吸に伴う骨盤の内側の微かな動きを感じてみます。基本はこれだけです。
 姿勢は頭蓋骨のてっぺんの蓋を開けて、上からのぞき込むと、からだが柔らかい管になっているようなつもりで軽く姿勢を支えます。

 あくまで大切なのは、呼吸(いきの出入り)に伴う、骨盤の中身の微細な変化に着目することです。できれば臍から下の骨盤に加えて、足・脚・床の下まで注意を広げてみます。
 「いき」に意識を向けていると、面白いことに脳が抵抗を始めます。
 「どうやって息をすれば良いのか?」「このやり方で良いのだろうか?」「息が苦しいのだけれどどうしたら良いのか?」「こんなことして何の意味があるのか?」「今晩のおかずはどうしよう?」「腰が痛い、膝が痛い、足が痛い、鼻が詰まる、息ができない」「眠い」「気持ち良い!」「光が見えた!」「これは素晴らしいことだ!」「宇宙がイメージできる!」・・・。
 書き出せばキリがないことですが、これらは全て「いき」の微かな変化に意識を向け続けようとするとき現れてくる、脳が意識に介入しようとして見せる妄想です。

 脳は、意識が「いき」に向かうことを嫌うようです。集中を妨げようと、ありとあらゆる幻想を見せてくれます。
 まあ、妄想だからといって毛嫌いすることはありません。ただ、問題となるのは、妄想に意識を捕らわれているときには、「いき」の変化への注意がおざなりになってしまっていることです。

 子供の我儘に耳を貸さずに、大人が大事な用件に注意を向けるのと同じです。妄想は脳の我がままですから、自分がその雑音に捕らわれていることに気が付いたら、お腹の「いき」に意識を戻せば良いのです。これだけ!

 なのですが、脳(自意識・自我)は繰り返しあの手この手で、チョッカイを出してきます。その都度、お腹に注意を戻すしかありません。実はこのチョッカイは、意識が「いき」に集中していることへの証明でもあります。集中への道標の役割を果たしているのです。

 妄想が出てきたら、それを離れてお腹に意識を戻す。これを繰り返すのが、「いきと姿勢のレッスン」の内容です。
 一種の筋トレです。普段の浅い呼吸に合わせた呼吸筋の使い方(身体全体の筋肉の使い方でもありますが、その運動イメージ)は、脳の中にインプットされています。それを深い呼吸の身体運動イメージへと書き換えていくのです。
 脳は一度インプットされた身体の使い方の情報を守ろうとします。これが脳の性格です。そのため、先に書いたように、それを意識的に変更することに、脳は妄想でもって徹底的に抗おうとするのです。

 お腹の中の「いき」の微細な変化に意識を向ければ、脳は妄想を見せます。「いき」に集中できている証拠です。集中できていなければ妄想は現れません。
 ただし妄想に耽っていては「いき」への注意を離れてしまう。そこでまた「いき」に意識を戻します。しばらくするとまた妄想が浮かんでくる。「素晴らしい考え」や「光が見える」など、魅惑的な妄想もありますが妄想に変わりはありません。そこでまたお腹の中の「いき」に意識を戻す。
 「いき」と「妄想」の間を行ったり来たりするその往還運動の繰り返しが、実は「集中している」ということなのです。集中とは、不動の静止の中に浸ることではありません。変化とともにあることなのです。

 この往還する変化の渦中を、自分の置き処とすることができるようになるのが、「いきと姿勢のレッスン」なのです。
 当たり前のことですが、生きている限りは呼吸に終わりがないのと同じように、当然「いき」のレッスンに終わりはありません。
 けれども僅かずつではありますが、繰り返すことで「いき」の置き処が変わっていきます。

 あまり目先の効果を謳いたくないのですが、10分ほど「いき」に意識を集中するだけで、「からだ」(感覚)と「こころ」(気持ち)に変化が出ます。ともかく「気持ち良い!」という感想が多いのですが、そのほかにも「からだもこころも楽になった」「スッキリした」「ずっと坐っていたい」「重心が低くなった」「からだは軽いけれどもどっしりと安定している」「安心して坐っていられる」等々。

 胡坐をほどいて立ち上がってみると、「地に足がついて、立っているのが楽だ」「背が伸びた・背が高くなった」「視野が拡がった」「周りの様子がよく見える」「立っていることが楽しい」「動き出したくなる」「重荷を下ろしたようだ」等々。普段とは違う自分の「からだ」と「こころ」が現れてきます。

 そして、明るく柔らかく静かな空気がその場を満たします。一人一人の「からだ」がゆったりとその場に解き放たれます。人とともにいることの安心感が生まれます。

 冒頭で、新宿の雑踏を行き交う人の意識の置き処(自分)が胸から上になっていることに触れました。
 自意識(自我意識)を前面に立て路上を闊歩する人々の姿がそこにあります。脳を司令塔の頂点に立て、意志の力で自分を引き上げ、人群れの中を渡っていく。それは、意志のアンテナを張り続け、意志的な緊張を常に心身に背負いながら、自分(自我)を保ち続けている姿です。

 意識の置き処は脳であり、その支配力を持って自分をコントロールし、状況や他者に向かい自分を在らしめている。
 そのため脳は常にフル回転をしている。睡眠時のほかは、脳の休まる暇がありません。
 さらに脳が回転しているときには、常に身体も状況に対して緊張し身構えています。自意識も次から次へと考える作業に明け暮れています。

 こんなことを続けていれば、心と体を四六時中張り詰めていることになり、神経症や心身症に陥って当然です。その上せっかくの休日でも自意識は普段通りに働き続けてしまう。本当の休息は成り立ちません。

 さて、意識の置き処がお臍から下に降りてくるとどうなるか。まず、自意識の暴走する様子を、距離をとって眺めることができるようになる。

 お腹の位置から頭上を眺めて「脳(自意識)のやつ、相変わらず頑張ってやがる。そろそろ脳スイッチをオフにしないとヤバイぞ!」という区別がつくようになる。
(働きすぎの警告は脳にはできない。脳は情報処理にひた走るだけ。壊れるまで走り続ける)

 「あの人はああ言ったけど、私の腹には響かない。くよくよ考えてもしょうがないから、放っておこう」などと、何が私にとって肝心なことかそうではないかという区別がつき始める。結果としてクヨクヨすることがなくなる。
(脳の働きは、コンピューターみたいなもので、どんな情報でも構わず処理をしようとして、様々な状況の変化を一律に取り込み、すべての情報にしばられ引きずりまわされ、選択ができなくなる)

 感情に巻き込まれることがなくなる。あるいは感情の働きの豊かさ(喜怒哀楽)を楽しめるようになる。
(情緒の不安定は脳の働きを阻害する。そこで脳は感情を押し殺そうと緊張を強いる。そこに葛藤が生まれ感情を閉じ込めたしこり=トラウマが形成される)
 胸の中でもやもやしているものが、お腹から眺めれば、解決の糸口が見えてくる。大変だねと、お腹の側から声をかけることができるようになる。

 これは、私にとって何よりの意味といっていいのですが、道端に色とりどりに咲き誇る、小さな花々の姿が私の意識に飛び込んでくる。
先に脳とお腹(呼吸)の往還運動と書きましたが、そこに心の空間が開けるのだと思います。
 風の吹き渡る声、鳥の囀り、花の彩りや香り、自然の息吹が見るとは無しに、向こうから私の「からだ」=「こころ」に飛び込んでくるのです。

 お腹に意識を置くことは、古来、日本の風土の中では当然のことだったようです。明治に始まる西洋由来の近代化以降、私たちは「自意識」=脳に置いた意識を中心に、物事を捉えるようになってきました。
 「からだとことばのレッスン」は、古来日本の身体文化、あるいは身体哲学の価値の復権・生まれ変わりを願うものです。意識をお腹に置く。自然や他者とは、ひとつながりの「いのち」より現れては消える、多様な個々であることが身をもって了解されてきます。

 満員電車も新宿の雑踏も、「いのち」の花の咲き誇る場となれば素敵かもしれません。「妄想」ですね(笑)


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