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2017年02月22日 (水) | Edit |

2017-02-20 001ed 


 竹内に怒られたことがある。これを怒られたと言えるのかどうか、難しいところですが。(竹内敏晴ー私の師匠・演出家・からだとことばのレッスン指導者)

 本番直前の舞台稽古でのこと。竹内演劇研究所「からだとことばの教室」は、3か月間の最終レッスンに演劇の発表会をします。15名ほどのメンバーの演技指導を私が担当しました。

 ここ二週間、参加メンバーと連夜の稽古を続けて来ました。教室スタッフとして初めて任された発表会。私自身の、これまでのレッスンや舞台での体験を手掛かりに、メンバーと共に練習を重ねて来たのです。

 けれども経験不足はどうしようもありません。稽古が上手くいかない。途方に暮れる。発表会当日を迎え、これ以上打つ手がなく上演の見込みも付かないまま、本番前に最終の稽古を竹内に預けました。

 竹内が指導に入ると、見る見るうちに舞台が活気づいてきます。戯曲の内容が鮮やかに浮かび上がってくる。メンバーの表情が舞台本番に向けて明るく開けていきます。真剣ながらも喜びを内に満たし、生き生きとしたメンバーの顔・顔・・・顔。

 私も素直に喜びを共にすれば良いのでしょうが、内心は複雑でした。竹内に私の至らなさを救われ、安堵し嬉しく思う反面、自分の力量不足が悔しかったり、情けなかったり。何とも言えない惨めな気分を味わっていました。

 竹内とメンバーに対する申し訳なさ。自分の無能を悟られることへの屈辱感と恥ずかしさ、怖れ。メンバーと、スタッフとしての自分の立場を引き比べる惨めさ、劣等感。竹内の指導する舞台稽古を見ながら、さまざまな思いが私の中で湧き立っていました。

 竹内の指導が終わり、私は無力感に襲われたまま客席からみんなの様子をうかがっていました。そこには竹内とそれを囲むメンバーの一体感・信頼感。その輪から押し退けられた私の孤絶感・孤立感・羨ましさ。

 「私に何ができるのか!」それでも「何かをしなければ!」。私はその場でスタッフらしさを誇示したかったのでしょう。竹内に声をかけ、メンバーへのアドバイスを求めようとました。

 竹内の疲れ切った後ろ姿に「竹内さん」と声をかけ、彼の肩に手を置いた瞬間のことです。竹内の「からだ」から私の「からだ」へ無言の「怒り」(光り)が飛び込んできました。

 白光の束が、氷の刃(やいば)のように噴きだし、私の腕を通り抜け、私のからだに飛び込んできたのです。光り(怒り)の剣が「私」を真っ二つ切り裂きました。

 その瞬間、私は真暗な闇の中、天地に切り裂かれた自分の姿を見ていました。稽古場の様子は意識から消え、ネガフィルムを見るような、ほの白い私の立ち姿が闇に浮かんでいたのです。

 刀傷を微塵も残すことなく、左右に断ち切られてしまった隙間からは、眼には見えない血を流しています。けれども痛みも苦しさも感じません。

 身動きさえできず、じっと静止したまま、感情のざわめきは消えてしまい、むしろ音のない闇の静けさに包まれています。私は茫然と立ち尽くしていました。

 それは一瞬のこと。竹内の姿が視野にもどり、私の縋(すが)るような眼差しを察したのでしょう。「やるべきこと、するべきことは稽古の中でメンバー全員に伝えた。」と、竹内の一言。

 直ぐに発表会の始まりです。劇場内は舞台上演に向けて動いています。思い煩ってじっとしている訳には行きません。逃げ出すことも叶いません。無言で竹内を離れ劇場を見渡し、私は裏方へ入っていきました。

 舞台が始まると、自分を脱ぎ捨て弾けるメンバーの姿がありました。舞台上で相手役に向かって、自分を乗り越えようと必死になる。その一人一人の緊張と震えが客席に伝わってきます。観客は息を凝らし舞台に食い入る。緊張が頂点にきたとき、それが「バッ!」と破れる。観客も「ドッ!」と歓声をあげて笑いが広がる。

 舞台と観客を行き交う息づかいが交錯し、劇場内が一体感に満たされます。稽古では思い描けないような、メンバーの明るく輝く姿に魅せられ、私も大いに笑わされました。演目は「出会いのトランポリン」(ミーガンテリーの戯曲:Coming&Going)です。

 上演を終え、舞台の出来に私の気持ちも明るくなり、メンバーと手をとり喜びを共にしていました。チョッピリやるせなさもありましたが、そこは打ち上げで飲んで騒いで、きれいさっぱりです。

    *    *    *

 大げさなように思われるかもしれませんが、竹内に怒られたときの体験は、この通り、このままです。30年以上を経て、いまだ私の記憶にはっきりと刻み込まれています。

 その後、この時の体験の意味を考えることはありませんでした。常識はずれで恥を晒すようでもありました。他人に話しても理解や共感を求めることは出来ないことでしょう。「ほとばしる光りの流れが私を切り裂いた」ことなど。

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 今頃になってその体験の意味が、私の中から浮かび上がってきました。どうやら、私のレッスンを考えるうえで、その中心を流れているのが「光り」の体験のようなのです。

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 お寺で坐禅を組んだ時のことです。日暮れた境内の中、一般者向けの道場で結跏趺坐(胡坐)を組み、呼吸に集中していました。
 
 一つ二つ・・・と息を数えるうちに、吐く息に連られてからだに「グッ!」と力が満ちてきます。樹木の固い幹のように、丸太ん棒のように全身が固まってきて、微かな息しか出来なくなりました。

 さらに息に力を込めた瞬間。裏山の中腹から木の厚板を叩くような、軽やかな音色が響いてきました。

 境内の奥、山上にあるのは修行僧の専門道場です。カンカンカンと木板を叩く音は、道場から参道に沿って、樹木に谺(こだま)しています。木板を槌打つ音が、樹々の響きを呑み込みながら、谷間をこちらへ駈け下りてきたのです。

 樹々の谺と鎚音の呼応しあう光景が眼に浮かび、うっとりとその美しさに聞き入っていたところ、谷間の景色は暗転し、響きは音を消し、光りの流れに変わりました。

 白い光りの怒濤が、暗闇を奔(はし)る龍のように、音もなく谷間を這い降りてくるのです。光芒が参道にそって、白い飛沫を飛び散らせながら、こちらに向かって駆け降りて来ます。

 光芒に呼応して、こちらから、私の方からも光りの帯が谷を昇っていきました。やがて両方の流れが出会い、再び谷を昇り始めます。山の中腹を越え、光芒は境内の後方を取り囲む山々の稜線へと駆け昇っていきます。

 山稜の影を超え、夜空に差し掛かったところで光りは消えました。代わって、山上の夜空を区切る境界線が見えてきます。こちらの側には境内の建物とそれを囲む山並みが、天空の境界線(天末線)によって切り取られ、陰影のままその中に納まっているのが見えて来ました。

 境界線の向こう側には、私の認識を阻む、漆黒の闇があります。命あるものとは一線を画した虚無の闇のようです。

 この境界線の内側までが「私」の「からだ」なのだと、納得させられました。なんだかちっぽけだと思いながら。

 やがて意識が反転し、境内の御堂で坐禅をする自分の姿に戻りました。「からだ」の内側に注意を向けると、こんどは境内の世界すべてが坐禅を組む自分の姿の内側にありました。その途端、涙が溢れてきました。息が深く自分を貫き、その奥底から感謝の思いがとめどなく溢れてきたのです。

    *    *    *

 これも「光り」にまつわる体験だったのです。その他、糸を引くように、様々な体験が浮かんできます。

 精神科のデイケアで井上ひさしの戯曲「十一匹のネコ」を上演した時のこと。感動に包まれた体育館の空間を「光り」の粒子が、キラキラと舞っていたことがありました。

 戯曲の力と、劇場を満たす深い集中が相俟って、その場に集う人々の「こころ」(=「からだ」)の奥底より、光りが解き放たれたのだと思います。
 
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 その他レッスンの場での、細かな場面ですが、やはりどれも「光り」がありました。

 竹内敏晴の指導する「呼びかけのレッスン」。誰かに向かって話しかけようとすると、声の軌跡が見えてくる。それは陰影の中に浮かぶ「光り」の光跡です。

 野口体操で身体の表層の強張り(緊張)をほどいて行くと、その人のからだの深部から光りが兆してきます。からだ全体の表情が明るくなります。

 私がことばのレッスン(朗読のレッスン)をするとき、ことばが光りを帯びて他者に至り、その場に、物語に描かれたイメージを浮かび上がらせる。

 姿勢と呼吸の指導をしている時に私は、「からだ」全体の息の流れ=「からだ」の陰影に浮かぶ光の流れを観ています。

 おそらく、細かい具体例をあげれば、きりがないようです。

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 結論から言えば、「光り」とは、「いき(息)」そのものだと私は思い始めました。そして「いき」は「こえ(声)」でもあります。

 発声のレッスンでは、「声を出そうと努力するのではなく、相手に向かって息を届けろ!」と指示をします。「こえ」も「いき」です。息が日常の空間を超えて他者に届くとき、非日常の場が劈(ひら)かれます。劇(演劇)的な空間が息づくのです。

 私の仕事=「からだとことばのレッスン」は、からだの調律であると以前に書きました。「いき」=「こえ」=「光り」の劈かれるために、「からだ」の調律=自然の理に「からだ」を導くことが、私の天職だといまは考えています。

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 なんだかファンタジー小説のようですね。現実に引き付けると、眉に唾を付けたくなるようでもあります。けれども私にとっては「からだ」を通じて観た、実体験です。それをそのまま書きだしてみました。

 こんなことが普段いつも見えている訳ではないし、ましてや観念をこね回して、物語を思い描いたわけでもありません。

 演劇や「からだとことばのレッスン」「野口体操」あるいは禅という、非日常の場で、私の感性の目に映ったことどもです。

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