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2017年02月15日 (水) | Edit |

2016-12-03 002ed 


 私が野口体操から学んだのは、既得の身体観を否定した先に、何が・どんな「からだ」が観えるかということである。

 野口三千三さんは「からだが硬い人は一人もいない。自分のからだが硬いと決めつけるのは(人間の・意識の)傲慢さである。」と言い切っていた。

 野口さんに出会ったのは、私自身まだ若かりし頃。こんな言葉を素直に受け取ってしまった。「誰もがからだは柔らかい」私がレッスンで人に向かう時に、私の根っこにあるゆるぎない言葉=ものの見方・考え方となった。36年前のことだ。

 以来、私はこの言葉に疑いや否定的な意見をもったことがない。むしろこの言葉によって私自身の自意識が繰り返し問い返されてきた。馬鹿の一つ覚えという言葉のとおりに、「誰もがからだは柔らかい」を私は自分の真ん中に収めてしまったのだ。

 ところが、世間には「自分の身体は固い」という人があふれている。教室の外では「誰もがからだは柔らかい」とは、殆んどの人が思っていない。

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 野口体操に「寝にょろ」という動きがある。床に仰向けになった人の足先を揺らして全身に波を伝える体操だ。どんな人の身体もユラユラと波が伝わって身体の緊張が解け去っていく。寝転がっている「からだ」がニョロニョロ動くから「寝にょろ」である。

 この体操をすれば、「誰もがからだは柔らかい」ことに納得がいくはずだ。けれども実際には、誰もが半信半疑である。レッスンの場でのことは特殊な例であって、自分のからだが柔かいとは認めない。

 どうやら意識(脳)の中に、「身体は固い物」なのだと既得の観念が貼りついているようだ。社会通念・常識としての身体の見方が、一般に確立してしまっているのだ。

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 「固い身体を、柔らかくしなければならない」と学校の体育の授業で、私たちは仕込まれて来た。柔軟体操・ストレッチと努力をして身体を柔らかくすべきだと。「からだは本来硬い物だ」との考えが、子供のころから私たちの意識に教え込まれ、それが常識になってしまっている。

 どれだけ深く前屈が出来るか、身体を反らせるか、開脚ができるか。関節がどれだけ大きく動かせるか、その角度の大きさが身体の柔軟性の評価基準になっている。身体が固い者は運動能力が劣っているのだから、柔らかくなるように、努力しなければならないと。

 「からだ」は生き物だ。外力でねじ伏すように、無理やり筋肉の伸縮や関節の稼働を強いれば、苦痛を伴い抵抗を起こす。体育の授業で運動嫌いになる人が多いのは、この苦痛が原因になっているように思える。

 意志力で無理やりからだを従わせる。からだの自然性・内発性への感知能力の強い人は、それを無意識に拒否する。体育が苦手な人の極め言葉は「私は身体が固いから」である。こう言えば、体育授業への拒否とは思われない。教師に睨まれることがない。

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 体育の授業での目的は「打ち克つ」ことである。自分に・他者に・競争に打ち勝つ。そのために身体を鍛えあげる。

 自分の人生の理想を成し遂げるためには、頑張ること・頑張れること(意識的に緊張・努力すること)が大切なのである。健康さえ意志的努力によって自ら作り出すものとなる。

 身体を固い物と見て、それを柔軟にすることの目的は、やはり頑張ることが出来るための準備体操である。硬い物は努力して柔らかくしなければならない。無暗に身体を鍛えるのが趣味の人を観ると、ある種の強迫観念となっているよう思える。

 「自意識(頭脳)が司令塔となって身体(肉体)を従える」という考えが、体育の身体観の基礎にあるのだろう。心や感情も意識の指令の下にコントロールされなければならないと考えられているようだ。

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 「誰もがからだは柔らかい」を腹に収めるということは、このような自意識主体の身体観から、一線を画すということである。

 一般に認められ常識となって根付いている「自意識(頭脳)が司令塔となって身体(肉体)を従える」という既成概念と真っ向から闘い、それに変わる身体観を主張しなければならない。

 それは同時に、私の中の常識を改めていく作業でもある。これまでの人生で私自身が無自覚に身に付けた知識や態度が、「誰もがからだは柔らかい」という言葉によって、剥ぎ落とされて行くことでもある。

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 「誰もがからだは柔らかい」と主張することは、身体(=からだ=自然)を主体とした身体観と、そこから始まる世界を周縁に向かって歩むことへと私を促す。同時に自分の中に長年かけて降り積もった、自意識主体の身体観をそぎ落としていく作業が始まる。

 社会通念として世間に認められた常識の中に、脚の置き場がなくなる。「誰もがからだは柔らかい」という言葉は、世間からも常識からも、その外側へと私を追いやる劇薬なのだろう。社会一般の価値観(ものの見方・考え方)を離れることは、社会的な立場からの突出を意味するだろう。

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 けれども、「誰もがからだは柔らかい」に依ってしか成立しようのない物事がある。「いのち」の主体としての「からだ」が見えてくる。それが今では分かる。長年の苦労の甲斐があったということか。

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 「からだ」の固さとは、柔らかさの湖(プール)に浮かんでいる自意識なのである。意識され得る実感が固さなのである。自意識が自分の存在感をアピール(区別)するために利用するのが、実感としての固さだ。

 状況に適応し身を守るために意識的に身に具えた固さなのである。身構えという。生れたときから固いなどと言うことはありない。

 そういえば、全身麻酔をかけると、身体の強ばり(緊張)が消えて、全身の筋肉が弛緩するという話を聞いたことがある。意識の主張が消え去るとき、身体は柔らかさそのものに戻る。緊張の主因は脳の指令にあるのだ。

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 自意識の強迫的な身体への緊張の強制は、筋肉の強張りとして身体中の循環作用を妨げる。血管を圧迫し神経の伝達を阻害する。血液や体液あるいは神経信号など、生体の持つ循環作用によって私たちは生命活動を維持している。それなのに、その「いのち」の働きが自意識の指令=緊張によって妨げられる。病気は緊張が固着した結果である。

 「風邪は万病の元」というが、風邪は発熱をもって、この固着を解き解消する自然の働きである。万病へと固着の影響が悪化する以前に、風邪を十分引き切れば、万病に至らずに済む。

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 手首をロープできつく縛り上げることを考えれば良いだろう。手首から先は、血液の循環を妨げられ、体温を失う。神経も圧迫され、手首から先は無感覚になり、やがては壊死することだろう。凍傷と一緒だ。

 もちろん、生体は自己のいのちを守ろうとする。痛みをもって、意識に訴え解放を促す。からだの発する感覚的な快不快や痛みのメッセージは生命が維持されるために非常に大切な要素である。感情も同様である。それらは自意識(自我)に対する、「いのち」の側からのメッセージである。

 生きていく上での主役は「からだ」である。自意識は脇役である。脇役が主役になっては、戯曲(ドラマ)は成り立たない。酷い芝居になるだろう。舞台には誰一人として、不必要な登場者(役)はいない。だから全員が主役だという言い方も出来るが、脇役は脇役に徹することが主役なのである。生命の全体性、そのドラマを担うのは「からだ」=「いのち」である。自意識はそれに協力をする脇役である。分をわきまえるべきである。

 ところが、私たちは「我慢」を大切にする。我慢とは、持続した緊張である。それは身体の内部の筋肉のしこりとなる。

 からだが自然の働きとして持ち合わせている痛みや感情を、自意識(我)がからだを固めさせることで、無視して押し込めてしまう。

 「我慢」とは、文字通り我に慢心してしまう。慢心とは自己主張に閉じこもり、人の声が聞こえなくなった状態だ。この場合は、「からだ」=いのちの声に、自意識が耳を傾けることが出来なくなった状態だ。

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 からだの内部を緊張させ強張らせることで、心の動きを無感覚へと押し殺してしまう。これが身体のしこり・凝り・強張り=持続した筋緊張である。それは同時に心のしこり・こわばりでもある。

 手首をロープで縛るとは、極端な話しであるが、私たちの身体の中で、見えにくい形ではあるが同様のことが為されている。

 身体内の循環作用が筋肉の強張り(筋緊張)によって阻害されれば、気分が心身ともに鬱々としてくる。脳を含めたあらゆる臓器の活動が、自意識の指令によって凝り固まった筋緊張(強ばり)により、本来の回復能力や運動能力を発揮できなくなっているのだ。万病の栄える原因である。

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 「こだわり」と「こわばり」。こだわりは、心理(こころ)の問題。こわばりは身体の問題と分かれる。しかし、日本語(からだことば)の中ではこれは同じ意味内容を持つように思う。同じ一つの「いのち」の在り様を、自我(自意識)の都合で、二面から言い現している。

 心の「こだわり」も身体の「こわばり」も、「柔らかさ」の湖に浮かぶ氷塊のようなもの。柔らかさとは「いのち」の本質である。「いのち」の流れで氷塊を溶かし、「からだ」と「こころ」の区別の無い世界から、自己を他者を人間を、自然世界を見つめ直してみてはどうだろう。

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 私の中に居座る「からだは誰もが柔らかい」という言葉が、ここに延々と言葉を紡がせたようだ。

 我ながら理解の届かぬ、酷く支離滅裂な文章にも思えるが、これだけの言葉が私の「からだ」の中から飛び出したがっていたのだと思うと、良否は言わずここにこのまま現わそうと思う。

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 どこかで読んだ話だと思う。剣術の師匠に入門を頼んだところ「蠅(ハエ)を、欄間の梁に髪の毛で吊るし、その蠅をじっと見つめること。蠅が象の大きさに見えるようになったら、私のところへ来なさい。入門を許そう」と言われる。剣士は日々蠅を見つめ続け、やがて蠅が像の大きさに観えることが出来るようになり、入門を許されたと云う。

 蠅が象の大きさに見えるなんて、普通の人はそもそも信じようとはしないだろう。疑いが先に立つ。この師匠は無理難題を課して、自分を試しているのではないかと勘繰るか、いろいろ工夫を凝らして――望遠鏡を持ち出したり、どうしたら見えるようになるか、遠見の術の教科書を紐解いたり、師匠に泣きついて質問をしたり。遠回りをするばかりで、やがては諦めるのだろう。

 この剣士は、いささかの疑いも持たずに、言われた通りに修行に入って行く。蠅が象の大きさに観ることが出来るのだ!と、予め疑いを抱くことなくひたすらに蠅を見続ける。

 おとぎ話・不思議話にも思えるが、私も同じようなことをしてきたようだ。「からだは(絶対に)柔らかい」と、師匠の言葉を真に受けて、ひたすらレッスンに励んできた。気がつけば三十数年を費やした。その甲斐あってか、今では身体は柔らかいものと観えるし、前置きなしに「からだは柔らかい」と言い切ることができる。

 けれどもこの「前置きなし」が難しい。これは日本の伝統的な「学び」の在り方である。

 前置きとは、何々故にとか、どうやったらという、達成に向けての方法やマニュアルだ。

 日本文化の中の修業(学び)では、この「前置き」があってはならないのだ。さらに「前置き」は、師匠によって引きはがされて行く。ただひたすら真っすぐに、修行に励むことでしか、観えてこない、ものにすることが出来ない真実がある。

 ここが、西欧由来の近代的教育法とは相いれないところだろう。「からだは(絶対に)柔らかい」という言葉を、素朴に受け入れてくれる人はいないかも知れない。条件付きでこの言葉を受け入れるようでは、レッスンにならない。困ったものだ。

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 それはそうと、もう野口さんも竹内さんも亡くなってしまったが、今ごろになって漸く私は、二人に入門を許されたのかもしれない。私の武者修行の旅は続くのだろう。いや、これからが始まりなのかもしれない。

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