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2017年02月06日 (月) | Edit |

2017-01-31 009ed 

 視野を広くすれば選択肢が増える。この場合の視野とは、空間的な「からだ」の広がりだ。目の前に置かれた物を選択するときも、空間的視野の広がりを保ったまま、全部・全体を見るようにする。

 そうすれば、あまり考えずとも、必要な物の側から、こちらを呼んでくれる。(ここが言葉にし辛いところだが、向こうから何か引かれる感じがするというか)必要のない物であれば、引かれることがない。視野を広くしておけば、隣りのテーブルにそれが、見つかることもある。

 空間的「からだ」の広がりというのが難しいかも知れない。

 選択というと、どうしても眼と頭が働く。そんなときには自分の呼吸と「からだ」の存在は忘れられてしまっている。これでは「からだ」に意識がいっていないのだから「からだ」を広げることは出来ない。

 先ず息を深くはいて足の裏を感じてみる。足の裏を通して大地から息(大地の息吹)が、体幹(からだのみき)へと出入りするつもりで。。。しばらくすると「からだ」の実体感や重量感が戻ってくる。

 そのまま、頭の天辺から足まで「からだ」全体の注意を周囲に広げる。部屋の中であれば、部屋の空間いっぱいに「からだ」が広がっているようなつもりで。

 「からだ」の空間イメージ=視野・視界を広げたまま、選択の対象に向かう。このときお臍のところにも眼があるつもりで、選択対象を見ると良い。

 AにしようかBにしようか、頭であれこれ悩む必要はない。どちらが必要なのかは対象物が教えてくれる。私の「からだ」の中(お腹の辺り?)に、対象物から引かれているような感じがしてくる。これは物を選ぶときに限らない。人を選ぶのでも、どちらに行くか道を選ぶのも同じだ。

 この選択法は、意識より間違いがない。意識・知識は、生れてこの方の過去の体験(先人の知識も含む)の蓄積だ。だから、全く未知の状況や体験に対する選択には役立たない。「からだ」は人類が言葉を持つ以前から、これまでに体験して来た艱難辛苦を乗り越え、生存を支えてきた先輩だ。首(こうべ)を垂れて「からだ」に選択を預けると良い。長い目で見れば、間違いのない選択となる。

    *    *    *

視野狭窄という。何かものごとに囚われて、他の肝腎なことが見えなくなっている状態だ。ここから抜けるのが難しい。意識以前に脳が反応して対象や考えに縛られ、その他の状況に眼をやることが出来なくなってしまう。こんな時はどんなに意志を強く持っても、視野が点になってしまっているのだ。不自由極まりない。その点を右に左に移動し状況に向かおうとするのだから、疲労困憊、努力すればするほどにイライラが募るばかりだ。

 意識・意志によってその状況を抜け出すことはできない。いずれにせよ開放は向こうからやって来て私を導く。意識を凝らして苦しい思いをするよりも、意識を頼らずに「からだ」を状況の中に広げ解き放てばよい。向こうからやって来てくれるものが良く観える。

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 選択を例に取ったが、「からだ」を広げれば、私たちの目の前にはいつも無限の選択肢が開けている。選択肢A、B、Cどころではない。眼差しの光景に映える様々なものや人、風光の変化さえ、私に呼びかけ始める。どれでも良い、呼ばれるところに歩を進めればよい。

 AかBかで迷うことが馬鹿らしくなって来ることさえある。AもBも本当に求めているものでは無かったりする。選択に迷うことに神経と時間を使うことの阿保らしさが身に染みてくる。

 私達一人一人の眼の前には、いつも無限の可能性が開けているのである。選択の自由がひらけている。このちっぽけな「からだ」全体を目の前の世界いっぱいに広げてみよう。新入学の校庭に立ったときのように。

【蛇足】
春が近いせいか「からだ」もほころび始めたようです。
駅のトイレ。満員の男子小用トイレで順番待ちをする人の列。用を足す人達で塞がった8台ほどの小便器。
順番を待つ人たちは、まるで寒さに怯えるように身体を縮こめ、便器に向かう人たちの後ろ姿に、まだかまだかと厳しい視線を泳がしています。この人が終わりそうだと見込みを付けてじっと見ていると、アッチの人の方がササッと用を済ませたりする。見込んでいた人は未だ粘っている。なかなか順番が回ってこない。イライラする。イライラがその場を満たす。
私自身も予測のつかない情況に振り回されていました。ハラハラしながら、用を足している人の背中に向かって「早く用を済ませろ!」「何をのんびりしている!」「順番が来るまで我慢出来るだろうか!!」「サッサと交代してくれ!」と内心の呟き。
私はふと「からだ」をトイレの空間いっぱいに広げてみました。その途端に尿意が軽くなりました。それまでみんなの視線に引かれて、不安に飲み込まれていた自分が可笑しくなって笑ってしまいました。
何とかしなければとはやる気持ちが、ますます生理的な反応を強調していたのでしょう。その上、オシッコしたい、我慢が出来ないという生理がみんなに伝染して増幅し、トイレの空間は恐慌状態(笑)
無時に用を澄まし、ホッとしたときに浮かんできたことを文章にしてみました。ご笑覧あれ。

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