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2017年01月05日 (木) | Edit |
2016-12-06 015ed

私は、レッスン場の空間いっぱいに「からだ」を広げて立ちます。

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以前、新宿に小劇場を構えていたとき、60人定員ほどの小さな空間(学校の教室より一回り小さい位)で、公演の稽古。本番を目の前に場の緊張感が高まっています。私は舞台前の席に背筋を伸ばし、劇の進行する舞台空間へと集中していました。

集中度が深まってくると、私の「からだ」が空間に開け放たれて、舞台から背後の客席まで劇場内全体に「からだ」が広がります。

すると不思議なことですが、私の正面、舞台で演じられている芝居はもちろん、客席で誰がなにをしているか、振り向かずとも背後で起きていることが観(見)えて来るのです。

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最近はレッスンの場でも同じです。視覚的というよりはやや感覚的ですが、「からだ」をその場の空間全体に広げておくと、多人数のワークショップでも、参加者個々の「からだ」に起こっていること(変化・変容)が、私の「からだ」に直接伝わってきます。参加者の体験していることが、私自身の体験として受け取れるのです。

いちいち、眼で見て観察・確認をしなくとも、ワークの課題を気持ちよく無理なく上手くできたり息を詰めて苦労したり、1人1人の内側で進行している変化の様子が伝わってくるのです。

見ようと意識する以前に、参加者の「からだ」の内部で起きている変化・変容が、直接に私の「からだ」に伝わってきます。誰かが素晴らしい動きや表現をしていると、考えることなく、その動きに引かれるようにして「それだ!」「良い!」の言葉が私の口を突いて飛び出して行きます。

「からだ」を広げることで、参加者全員の「からだ」と直接に接触あるいは同化していることになるのだろうと思います。参加者の「からだ」の内側の状況と、そこからから表現されるものを、我がことのように感じることが出来るのです。

教師や医者・ファシリテーターのような、指導者・審判者・観察者の眼差しはまったく必要が無いのです。相手の変化に対して、いちいちに自分の意識・知識に立ち返り善し悪しを判断してみたり、解決法を思案する必要はまったくありません。一人一人の「からだ」と共に歩みを進め、障碍や課題を共に乗り越えて、他者や対象への出会いを深めていくことが成立します。

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友人の娘さんは、能登で修行を済ませた杜氏さんです。仕込みの時期の4か月は酒蔵に付きっ切り釘付けになるそうです。現在では和歌山の酒蔵を任されています。彼女がリーダーになって大勢の蔵人と一緒に、酒造りを進めていくのです。仕込みの期間、休む間もなく忙しく立ち働いているのですが、自分の作業に没頭しながらも、酒蔵の何処で誰が何をしているか、他の人たちがどんな様子で働いているかが、全てわかってしまうそうです。別の作業場でサボっている人がいると、監視することが無くてもそれが分かってしまう。彼女は見えるのだと言っていました。彼女の話を聞いていると、酒蔵の空気(菌)を媒介にして、皆の様子が逐次伝わって来ているようも思えます。いずれにしても、仕込み中、彼女も酒蔵の隅々一杯まで「からだ」を広げているようです。

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盛岡で黒川さんさ踊りを長年学んでいた友人は、「祭りで踊っていると、自分のからだが山の端まで広がる」と私に教えてくれました。

私にも体験があります。50名ほどの人で満員になった芝居小屋、役者として舞台に飛び出した途端、私の息づかいと観客の息づかいが一つになって、劇場空間一杯に広がり、劇場内を満たし流れ合っている。舞台は演技者のうち誰か一人が、日常的な自分の殻=自意識を破り去り「からだ」を開け放つと、舞台のみならず劇場全体が活気づき、他の役者の芝居や演目に命が吹き込まれます。(身体→殻立ち→殻絶ち→空立ち→「からだ」)

坐禅の最中に、自分のからだがお寺の境内一杯に広がったこともあります。境内の光景と自分との境が亡失して、全てが自分の「からだ」になってしまう。境内の雰囲気が本然的な美しさを露わにします。

大正から昭和にかけて活躍された名女優、山本安英さんがその著作で述べています。「二重マルという、ちょっと変なことばを使うことがよくあります。劇場に着くと、楽屋に入る前に、私は準備中の舞台に立って無人の客席を見渡し、声を出してみます。一番条件の悪い席にも、ちゃんと芝居[声だけではなく身裡の動きまで]が伝わらないといけない。そのためには小屋(劇場空間)の大きさ一杯の芝居では駄目なんですね。小屋を一重マルとすると、外側にもう一つマルを描いて、その二重マル一杯に自分の気持ちを置くんです。それは同時に、劇場の外からそれぞれの営みをもって、いまここに集まってきた人びとの現実生活の空気のようなものを舞台で受けとめることでもある。劇場の外にひろがっている時代といいますか、状況に向かって声をひびかせ、語りかけて行くんですね。」(山本安英著「女優という仕事」岩波新書258より引用、[ ]内は瀬戸嶋が記)「からだ」の広がりについて、見事に記されています。

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野口体操の野口三千三さんは、「(四角い)教室の四隅の柱に気持ちを置いて」と言っています。四股のポーズを取るときには「水平・垂直の全方向にからだを広げて」と、また「人間は地球の中心一点において一緒になる。繋がる」とも言っています。

竹内敏晴は、「場を支える集中」あるいは「舞台いっぱいにからだを広げて」と言っていました。弓の修行を例にして「人と物との物理的距離を越える」とも語っています。

私にとって「からだを広げて立つ」ことは、1981年に出会った、野口・竹内の両師の言葉から始まっています。

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現代に至っては、どうやら私たちは、皮膚(外皮)を境に自分とその外側の自分でないもの=環境を区別するのが当たり前のことになってしまっているようです。行きつくところ、皮膚の外側は自分では無いと考える。目や耳のセンサーを通じて、自分以外のものを認識し、脳で処理をして手足で働きかける。近代化によって生まれた人間観・身体観が、人間を身体の内側に閉じ込めてしまったのだと思います。

身体外部の環境は、他者や自然をも含めて自分ではない。他者や自然環境を傷つけることは結局のところ、他人ごとになってしまっています。そこで倫理や法律が発達して、常識や道徳的な良心でもって、互いの行動を規制し調整する。「こういうことをしたら滅びる・壊れるから、こうした方が良い」というように、計算し約束事を決めて行き、それを互いに尊重するのが人間関係になってしまっているようです。だから、約束を破るのが犯罪であり忌み嫌われ叩かれる。

「からだ」の境界に囚われずに「からだを広げて立つ」ならば、他者の苦しみは自分のことと感じられます。意識はそのまま保たれつつも、「からだ」の区別はなくなります。苦しさや痛みは他人事ではなくなります。他の「からだ」を傷つけることは、自分のからだを傷つけることでもあるわけです。自然破壊も我がこととなるのです。

私の子供のころ、戦後10数年、しばらくはまだ温もりが人と人の間を満たしていました。「からだ」は不器用ながら生々しく開けていた。近代化が進むにつれて、人と人との間が「真空」になってきてしまったようです。真空化は、自然破壊と人間性破壊と同時に進行しているのでしょう。

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長々と事例ばかりを並べました。現代では「からだを広げて立つ」は、発達した科学的な思考の外側に置かれているように思います。「人間」は人と人の間と書きますが、その「間」には感覚的には真空しかない。真空を越えて人は、繋がろうとしている。「ことば」は人と人の間の空隙を越えて、情報やノウハウを交換するための、物と化している。

人と人の「間」を「からだ」が満たしているとは、考えられなくなっているようです。ところが「物としてのことば」以前のところで働いている、豊かな流れ合い響きあいは、まだ失われたわけではありません。それを繋ぐのが「からだの広がり」です。

人の集まりの中で「からだを広げて立つ」ことは、容易ではありません。それは自分を他者に向けて開け放して立つ。自分をその場に手ぶらのすっ裸で捧げる。怖さや恥ずかしさをともなうことでもあります。けれどもそれは、教師やワークショップの指導者、セラピストその他、人の「からだ」と「ことば」に関わる人達に求められる能力だと私は思っています。素の自分を晒し、自分を越えて他者の「からだ」に関わることで、他者の直接の反応をわが身に受け取り、自分自身の仕事は問われ成長をして行くものですから。

真空を前提に知識や技能を伝えていくことと、からだを広げて直接に参加者にふれあうこととでは、生まれる結果ははっきりと変わってくることでしょう。脳(知識・意識)を介さず、直接に「からだ」から「からだ」へと交流し、伝えあい学び合っていく、それがベースに無ければ、どんな素晴らしい教育も対人援助も、意味をなさないのではないでしょうか。

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「からだを広げて立つ」なんて「またまた瀬戸嶋は変な奴だ!」と言われそうな気がして、書くことを躊躇していました。けれども様々な実践の場や他者の講演などの催しに足を運んでも、このような「からだ」についての知見は全く語られていない。だから人さまのワークショップに出ても、真空の中を中身のない記号としての言葉ばかりが飛び交っていて、場に対する虚しさを感じてしまう。たとえその場での話が私の頭と心に響き、発見があり気持ちは楽しくなったとしても、どこか他人事のような印象がぬぐえない。私にとって、人と人が「からだ」を通じて、直に繋がる喜びに勝るものは無いのです。

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「人間とは?」今年はそんな問いかけを、もっともっと深めていきたいと思っています。お付き合いいただけると、大変ありがたく思います。どうぞよろしくお願いします。

明後日からは琵琶湖畔で合宿です。自然の中に思い切り翼を・・・「からだ」を広げて楽しんできます。

(瀬戸嶋 充・ばん)

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