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2016年12月09日 (金) | Edit |

2016-11-22 028ed   

私はよく、野口体操の動きを皆の前でやってみせる。そのときのレッスン参加者の反応が面白い。とくに初めての人達が集まる場でのこと。
 
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私は一人で立ち、目を閉じてからだの内側を静かに弛める。ついで、腰から上、上半身を前に下ろして行く。上半身は腰のところから、二つに折れてぶら下がり、波に揺れる海藻のようにゆらゆらと揺れる。(野口体操「ぶら下がり」の動き、ホームページ中段の動画参照

私は目を閉じたまま、「からだ」が揺れるに任せて気持ちよく動いているのだが、まわりで見ている人たちの視線が、私のからだに突き刺さるように感ずる。

からだを起こして、みんなの顔を見わたすと、眉間にしわを寄せて私の動きを睨みつける人。よく見て動きを理解をしようと、目玉が飛び出さんばかりの人。息を詰めてこわごわと眼差しを送る人。見てはいけない物を見ているような覗き見る表情。その他さまざま何と言って良いのか不思議そうな顔をしている。

本人は気づいていない様子だが、普段は人前でそんな表情を見せることは無いだろうというくらい、険しい顔をしている人もいる。きっとこれは、理解不能で得体の知れない異常事態に出会い、それを何とか理解しようと一処懸命になっている顔だ。私はお化けでは無いのだが。

野口体操の動きは確かに不思議ではある。からだがアメーバー(原生動物)やミミズのように、ずるずると流れ出したりクネクネユルユルと波打ったり、正体不明の動きである。

そのうえ参加者の人たちは、体操を習いに来ている。体操は型通りに動くものという常識があるようだ。これを体操と呼べるのか、どうやったらあんなことが出来るのかと、動きの手がかりを探るように、ますます一処懸命に見る。良く分からないので、さらに見ることに必死となり、必死になればなるほど表情が厳しくなり視線はさらに険しくなる。意識は混乱を起こすのだ。なんだこれはという顔になる。

結果、みんなの視線が私のからだに突き刺さることになる。

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野口体操のこの奇妙な動き(ぶら下がりの動き)は、ラジオ体操や器械体操のように決まった動きのカタチやパターンがない。決めポーズもない。浜辺に寄せては返す波の動きと同様で、留まるところなく「からだ」の動きは移り変わり、千変万化を繰り返す。

常に動き変化を続ける対象は、意識に映し取ろうとしても、意識によっては把握が出来ない。意識は静止したものやパターン化した動きは捉えることが出来るが、常に移り変わり続けるイメージを記憶・理解することは出来ないのだ。だから「こうして、こうやって、こうすれば、こう成る」という解釈が無理なのである。

そもそも無理なことを、意識(脳)が自分自身に強いるのである。だから皆さん、理解しようとすればするほどに、とんでもなく緊張した厳しい顔つきになってしまう。

把握不能なものは把握不能と覚悟を決め、無理無体なことを自分に強いることを止めるのが「気づき」の第一歩ではないだろうか。

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「皆さん顔が怖いです。それは私の動き(野口体操)を頭(意識)で理解しようとしている顔ですね」「ここ(レッスンの場)では頭で理解することは捨ててください。からだからからだへと、動きを受け取ってください」「からだで受け取った印象だけが手がかりです」

私のレッスンでは意識的な理解を求めない。むしろ理解や知識という頭の中身のことは、ほったらかしにしてやってみる。そうするとそこに現われてくる「からだ」がある。意識せずとも「からだ」はちゃんと動きを受け取っているから、見よう見まねでやってみると案外簡単に出来てしまう。

ふつうは解釈・理解してから実行に移すのが当たり前になっているのに、理解を捨てた方が良く出来てしまう。だからみんな驚く。意識的な努力がいらないものだから、みんな嬉しそう。意識の縛りがないからほんとうに自由な伸び伸びとした「からだ」になれる。

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基本は頑張らないこと。努力をしないこと。どちらも意識が「からだ」に緊張を強いることだ。みんな何かというと、頑張ってものごとを達成する習慣が身に染みついている。レッスンの中で、頑張ろうとして「からだ」を固める人がいると、私はそれを指摘するだけ。

私がからだの強張りを真似して指摘して行くと、どんどんみんなのからだの動きが滑らかに軽くなって行く。どうやったら力が抜けるかを教えることは無い。「からだ」は力が抜けるように出来ている。「からだ」は、身に着けた強ばりを剥ぎ取りたがっている。だから「からだ」の言い分に耳を澄まして、意識が余計な緊張を強いるのを止めて行けば、自然とちからが抜けていく。

地に足が付き、強ばりをほどいたからだを、大地の息吹が天に向かって吹き抜ける。真っすぐに立ちあがる「からだ」が姿を顕わす。「姿勢」を支えるのは息である。「いのち」は息(い)の力(ち・から)であるから、「いのち」が立ち上がってくるのである。

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上記とは別の場面になるが「姿勢のレッスン」では、「真っすぐ立ってください」と告げて、立ち上がったときの姿勢を観て行く。一人一人、自分で真っすぐと思われる姿勢をしてもらう。

けれども、当人は姿勢を真っすぐにして「からだ」を支えて立っているつもりなのだが、腰や胸の辺りを強張らせている。首の後ろを縮こめて顎が上がっていたり、股関節や膝を固めていたり、「からだ」を意識的に緊張努力で縛り付けるようにして立っている。

当然、強張り(緊張)によって「からだ」は歪む、重心も上擦ってしまう。息の流れも塞がれてしまう。良いとこ無しである。真っすぐな姿勢とは身体を緊張させて棒のように固めることだと、ほとんどの人が思いこんでいる。その意識が苦労の原因になる。

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私が手を貸して姿勢を直していく。「からだ」の中を足の裏から頭の天辺へと、息が真っすぐに通り抜けられるように「からだ」の強ばりを外しながら、からだ全体の繋がりを調え直して行く。

まわりで見ている人にも、変化が良く見える。強張っていた肩が落ち、背筋がやわらかく伸びあがる。脚がスッキリして、足うらが地面に安定し清々しい姿になる。見ていて、始めとは別人になったみたいだと感想を述べる人もいる。

ところが、本人はたいへん居心地が悪いようだ。感想を聞くと先ず「これが真っすぐに立っているのか?歪んでいる気がする。重心がずれている。窮屈だ!」まわりの人が述べる感想を信じ難いようだ。自意識(自己実体感・自我イメージ・常識的仮想自己観)が、変化に対して抵抗を示している。感覚が違和感に捕まってしまっている。

もういちど前述の「ぶら下がり」の動きをやって、からだの強張りをほどいて、力を抜いて、真っすぐに立ってみる。違和感とは「からだ」の表面上の感覚だ。そこに意識が囚われているのだから、「からだ」の内側の動き、つまり息(呼吸)の感覚に意識をシフトして見れば良い。

息(呼吸)にともない変化する「からだ」の内側の動きに感覚を向けたまま、あらためて姿勢を直してみる。「息が楽だ!立っていて気持ちいい。周りが良く見える!」と打って変わったような感想が漏れてくる。まわりから見ても、仏さまを見ているような穏やかな表情。それでも姿勢はスッキリと天地に伸びている。「からだ」全体の表情は明るく張りが在る。

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「私は意志(意識)を信じない」とたびたび言い始めている。

意識(脳)は身体の表層・表面上の感覚と強く結びついている。そして内外の環境の変化に常に振り回されている。だから意識は自分の落ち着き処にはならない。

落ち着きどころは、具体的な天地自然に属する「からだ」にある。息(呼吸)を感じることはその落ち着きどころを見いだすための手がかりを与えてくれる。その落ち着きどころにどっしりと腰を据え、そこから意識の変転を眺める。道は観えてくるはずだ。道は必ずある。


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