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2016年11月18日 (金) | Edit |

2016-07-08 005ed 

『からだとことばといのちのレッスン』

「からだ」は「いのち」のあらわれである。「ことば」は「いのち」から「いのち」への「呼びかけ」である。「からだとことばのレッスン」とは「いのちのレッスン」である。

「ことば」は自他の境界を超え、他者の内側へと至る。音楽やダンスがそうであるように、言葉は直接に他者の「いのち」の 奥底に触れ、「いのち」の反応を呼び覚ますのだ。 これが演劇あるいは「からだとことばのレッスン」における「ことば」の可能性である。

その「ことば」とは、知識や情報、あるいは気持ちや思いの伝達、感情の表出の手段ではない。ましてや自己主張のための手だてではない。 「ことば」とは、他者の「いのち」への直接の「呼びかけ」である。

「呼びかけ」とは、語り手の「いのち」が、他者の「いのち」を呼び覚ます行為である。 「いのち」とは何か。それは「からだ」という宇宙を形作るちからである。息吹きである。

「からだ」とは、天地に連なる満ち足りた時空である。無限の変化を孕む創造の担い手である。「からだ」まるごとの「呼びかけ」により、自と他は物理的隔たりを超えて呼応する。天地に連なる自己が、自他共々に呼び覚まされるのだ。 自他の感応のときにこそ、自他の本質は明らかにされ、その本来の姿が明らかになる。

私たちは天地を共に呼吸する、ひとつの「いのち」の現れだ。 現今の孤独に徹しつつ、孤独という幻想を越えるところ。「ことば」は「いのち」の花となる。 「ことば」とは、刹那に咲く喜びの花である。

    *    *    *

ここ二ヶ月ほど、ブログがまったく書けない日々が続いた。忙しいからというわけではない。書く気がしないわけでもない。書こうとすると自分の中の空白を、意識はくるりくるりと滑ってしまう。私の中でまた新たな歩みが始まっていたのだろう。そこには「だいじょうぶ」の声が響き続けていた。

    *    *    *

出光美術館に「大仙厓展」を観に行った。仙厓和尚の禅画を知ってから15年になる。なかでも「指月布袋画賛」が好きだ。上半身裸腰巻ひとつの布袋様(私には乞食坊主にみえる)と素っ裸の子供が、月を指さし躍り上がらんばかりに喜んでいる。

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指月の譬えという。禅の人たちの言うには、仏(月)を指差し成仏を願う(仏とともに在る)ことが禅なのに、いつの間にやら指ばかりを見て、月(仏)を見なくなる。指というのは禅の教学(知識や思想・坐禅法)など、テクニックのことだ。

ボディーワークの講師が技法に拘ったり理屈(指)ばかりをこねて薀蓄(指)を述べ、目の前の「からだ」が観えなくなっていることと同じ。「いのち」を月に喩えるならば、月さす指はテクニックや知識である。対人職の人たちにはどこでもよくある話。

「いのち」への眼差しは喜びの眼差し。何物にも代えがたい。乞食になってもそれだけで、いつも喜びに満たされている。

    *    *    *

「野口体操」も「竹内からだとことばのレッスン」も恐ろしく単純シンプルである。レパートリーの広さを考えるとつまらないものである。けれどもやって見ると酷く面白い。噛めば噛むほどに味が出るという豊かさだ。野口三千三の実践と竹内の実践を、口に放り込んで長年「モグモグモグモグ」していたら、混ざりあって新たな味わいが出てきているようだ。こりゃ一生ものだね。


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