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2016年09月15日 (木) | Edit |
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「歩く」ということは、向こうに広がる世界に自分が踏み入って行くことだと、思われているようです。目の前に広がる景色の中に自分を推し進め、目的地に行き着く。「私」は地図の上を移動するゲームの駒のようです。

たとえ道を行くのが楽しくても、自らを押し進めようとする努力を離れることはありません。目的地に到達して、あるいは帰着して「今日はよく歩いたぞ!」と自分の努力を誉める。もしくは「あー疲れた!」とため息を発します。

私にとって「歩く」ことは、景色がこちらにやって来て、私の中へと通り過ぎて行くことなのです。こちらから向こうへと足を運ぶのではなく、景色のほうがこちらにやって来てくれる。自分が歩いているというのに、まるで動く歩道に乗っているような気分です。自分が努力しているという実感は全くありません。

私は、自宅から駅に向かう10分ほどの道のりを、その日の体調を窺う(うかがう)時間にしています。ゆっくりゆっくり一歩一歩に足のウラを感じながら息を深く吐き「からだ」に息を通します。天地に伸びる、吹き抜けの柔らかい管(くだ)が「からだ」です。

水平にたなびく風を孕んだ鯉幟や吹流しを、地面から天へと鉛直方向に吹き上げた「からだ」。そんな感覚的イメージがスッと持てたときには、立ったり歩いたりがとても心地よいものです。ギクシャクした感じや重々しさという「からだ」の実感が消えて、地面を滑るように歩みを進めることが出来ます。

さらに、視野を広く保ち「からだ」を景色の中へと広げ、体軸を天地に伸ばして歩きます。駅に向かう道々の光景が私の「からだ」(=開けた視野)に飛び込んで来て、私の「からだ」の中に通り去っていくのです。歩道を行く人の姿も、すれ違う人も、みんな私の中に飛び込んで来て、私の中に過ぎ去っていきます。

道々の出来事が私の心を揺さぶることはありません。どんな人が歩いてこようが、車が脇を走り抜けようが、気分が揺れることは無いのです。草花の美しさも、色鮮やかに煌めきながら私の中に飛び込み過ぎ去っていきます(道端の花が写真を撮れと私を誘うこともありますが)。青空も雲も太陽も木々も道端の建物も、どこ吹く風と流れて行きます。心が景色に捕まって凝って(こごって)しまうことがないのです。

そのとき私(=からだ)は透明な存在です。「からだはからだ」(=身体は空だ)とは、「野口体操」の野口三千三先生や「からだとことばのレッスン」の竹内敏晴師匠が遺した言葉ですが、私は空っぽそのものになってしまって歩いている実感(努力感)も無いのです。光景がただ向こうからやって来て私の中に通り過ぎて行くだけの透明な安心感が、歩いていることになります。駅の階段も苦になりません。滑り上がるようで、体重さえも忘れています。

そうそう、もうひとつ大切なことを忘れていました。「頭を使わない」ことです。何時の電車に乗らなければ、今日の予定は何だっけ、誰それに会わなければ、お昼は何を食べようか、彼女(彼)はどうしているか等々、そんなことに捉われていては、せっかくの駅までのひと時が台無しです。

気持ちの居所を足の裏に置きます。頭にのぼった注意(意識)を呼吸(息)とともに地面に下し、あるいは大地に返すのです。頭が空っぽでないと、世界は私の中へと流れ込むことができません。意識(=頭脳)は関所、関門です。世界と私との交流を監視する番兵です。あるがままを観ることから「私」を閉ざす「常識」という色眼鏡なのです。

展開して来る光景に「からだ」を明け放してしまえば良いのに、眼先の対象に次々と注意(意識)を奪われ、脳が刺激されることであらぬ思いが心を巡ります。心(感情)がガタつくのです。

さあ、息を深くして今日も歩きだします。「からだ」が滞り上手く歩けない日もあります。駅の階段で息を切らすこともある。でもこんな歩みを繰り返すことで、自然と一如の自分の大きなリズムが見えて来ます。無理をしなくなるのです。季節の巡りと親しくなり無理なく日々を送ることの大切さが分かってきます。世界と私の距離は消え、一つの「いのち」を生きる喜びが、私の日々の支えとなっていくのです。

    *    *    *

意識を世界に解き放ち「いまここ」にやって来る光景を受け入れる。「いまここ」(ひととき)の透きとおった幸福感があります。

私はこれまで、それとは異なる「時」を歩いてきました。歩くことは目的へ至る手段としか考えていませんでした。無駄な時間だと思っていました。そのために、駅に向かう道すがら、今のうちに仕事のことをいろいろ考えておかなければと、脇目もふらずに意識を凝らしていました。日々の道端の光景や、お天気さえもお構いなしでした。

目的達成に価値を置き、その課程を無視する在り方は、学校の成績主上主義の中で、我知らずに身につけたのでしょう。世界は我武者羅に努力してつかみ取るもので、私のところへ向こうからやって来るものでは無かったのです。

いまは違います。向こうからやって来るものを受け入れる、その課程を楽しめばよいのです。結果はその楽しみに応じて私にもたらされる思いがけないプレゼントです。

    *    *    *

意識が忙しない(せわしない)ときに、こんな詩が心に浮かんできます。

ごびらっふの独白(大)縦列ed

私の大好きな詩です~♪

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