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2016年06月23日 (木) | Edit |
2016-06-07 002ed 

「からだとことばのレッスン」で、私が求めていることは、自分の「からだ」を「ことば」に明け渡してしまうことです。「ことば」に明け渡すということは、物語や戯曲のセリフなど、「ことば」に内在する、感情やイメージに自分の「からだ」を明け渡すことです。

この場合、障碍になるのが、自分(自意識)です。表現するということはこういうことだと、殆んどの人がその理想を、無自覚に頭の中にインプットしています。それは学校で習ったり、誰かの演技や歌っている様子を見たり、知らず知らずのうちに、表現とは何か、その答えを、頭の中で決めてしまっているのです。

そして自分の頭の中のイメージ通りに表現出来たときには満足し、それが出来なければ自分はダメだとなります。「からだ」は自分の思いを表現する道具なのです。「からだ」を駆使して、意識的努力によって作り出していくのが、一般に表現と言われているのです。

この場合、自己の表現に対して、常に自意識の監視が付きまといます。自分の思い通りにしなければいけない、自分の満足の行くような表現にしなければならない、ちゃんとしなければいけない、失敗してはいけない、良い表現にしなければならないと、意識の見張りがついて、表現をリードしているわけです。

求められるのは、自分の表現に対する責任感と、自分あるいは他者の評価に応える努力と、目的への達成感です。

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「ことば」に「からだ」を明け渡すとは、自分の表現を作り出すことに、責任を持ちません。表現の主体(本体)は自分では無くなります。「ことば」に触発されて身内から生れる感情やイメージが表現される主体となって、自己を衝き動かす。意識はそれを妨げない。そのためには表現を受けとる側(相手役や観客・対象)へと、途切れることなく向かい続ける、開けっ放しの集中が求められます。

いまこの場に生まれ自らを衝き動かしている表現に、自意識が善悪好悪の評価を加えようとする瞬間、注意(集中)は自らの「からだ」と「こころ」に囚われ、外部に向けて開け放たれていた集中は蓋をされ、「ことば」(イメージや感情)の表現の道筋は閉ざされてしまいます。

この場合の表現において、責任を持つとすれば、それは自分の「からだ」を開き続ける努力(深い集中)に対してです。その時々に、自分の内側から表現されてくる結果に対し、自ら評価を下してはならないのです。

「ことば」自体が目的を達成します。自分の目的を持ち込んで達成感を目指せば、物語や戯曲自体の持つ「ことば」の「いのち」は葬り去られることになるのです。

宮沢賢治の物語の中で語られる言葉は、リズムと色合いを持ち、感情とイメージと行動とを、読む者(語り手)の「からだ」の内側から湧き立たせます。「からだ」を「ことば」に明け渡し「ことば」自体の赴くままに表現を見出そうと思う時、私は残念ながら、他に適当なテキストを持ちません。

おそらく賢治童話の「ことば」は、眼や頭で読むのではなく、妹や弟に直接語って聞かせるための言葉だったからだと思います。詩人としての賢治自らの心を、自我に凝り固まる前の人達の「からだ」と「こころ」に、直接に届けたかったのでしょう。

自分の「からだ」を「ことば」に明け渡してしまうとき、目的への達成感を得ることはありません。自らが「ことば」に生かされた驚きと、自意識を離れる自由と、その思いがけない喜びが身内を満たすのみです。自分は良くやったぞなどと言う、意識で価値付けできるようなものは、何も残りません。いのちの飛翔、祭りです。

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感情とは神様からの贈り物だと、私は思っています。喜怒哀楽すべてが、私にとっては肯定すべきだものだと思っています。人間にとって必要だからやって来て、必要が無くなれば自ら去って行くものです。しかし、社会生活の中ではそれが許されない。演劇やアートは、情動を生ききることで、私たちを日常的な感情への囚われより、心底開放する手立て与えてくれます。「祭り」なのだと思います。

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「からだとことばのレッスン」は、演劇人やアーティストなどの専門家のためのレッスンではありません。表現にかかわる専門家の人達は、このような考えにはあまり興味を示さないようです。レッスンは、勇気をもって自己を意識の囚われから引きはがし、より深く豊かに生きることを望む、すべての人達のものです。


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