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2016年06月11日 (土) | Edit |
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心理学があるのだから、「身理学」があっていいと思います。「心理的不安」という言葉はあるけれど、「身理的不安」とは言いません。「身体的不安」と言う言葉はあるけれど、それでは病気や運動能力の欠如など、欠損にともなう不安ということになってしまいます。

「身理的不安」と言えば、理に叶わない身体の使い方の結果、不安・不安定になると言う考え方ができるようになります。

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新宿の雑踏を歩いていると、道行く人のほとんどが、胸から上に意識を置いています。臍から下、足腰に注意(意識)を置いている人は殆んどお目にかかりません。意識は常に忙しく動いているのですが、自分自身の足腰に注意(意識)を払っている人はいません。そのため重心は胸から上に引き上げられ、足腰は自動機械、身体の付属物のようです。華やぐ上半身を運ぶための、鞭うたれる奴隷としての下半身です。

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初めて野口体操のレッスンに参加するほとんどの人が、脚・足を棒のように固めています。脚の力(こわばり・緊張)を抜く必要も、体験も、そんなことがあることさえ、考えたことがないのでしょう。脚・足の外形(スタイル)に気を使っている人でも、脚の中身の状態を考えたことは無いようです。

床に力を抜いて横たわり、足・脚を揺らして、こわばり(筋肉の収縮)をほぐしていきます。中身のぎっしり詰まった棒杭のような脚が、揺らされ緩んで、緊張が溶けて行きます。搗きたてのお餅のように、瑞々しくふっくらとした足・脚。清々しく、伸び伸びとした脚の表情が見えてきます。

立ちあがって、歩いてみれば、脚のギクシャク感が消え、動きが滑らかになります。立てば足のウラが地面に柔かく吸い付くようです。歩くこと、立つことの心地よさが感じられます。ふだんは意識することなく、緊張にギクシャクとした脚で歩を進めていたのでしょう。皆さん、顔の表情も優しくなります。立つこと歩くことの喜びが静かにレッスンの場を満たします。

油の切れた機械のように固まった脚・足で歩いていては、歩くこと自体が不安定で苦痛でしょう。表情も険しくなって当然です。ただし、強張り固まってしまうと、意識はそのことが分からなくなります。緊張することで感覚が鈍くなるのです。意識の注意を向けても、何も感じられなくなるのです。さび付いた自動機械が、ふつうのことになってしまうのです。鞭うたなければ動かなくなります。

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これが新宿の雑踏を行く人達の姿です。意識の注意は腰から上、上半身に向けられます。脚・足には、痛みや故障の無い限りは注意を払うことがありません。立つこと歩くことの心地よさや喜びは全く考えの中に入りません。立つこと歩くことは努力と我慢をともなう苦行でしかないのです。

立つこと歩くことから解放されようとして、目的地を目指してせかせかと足早に進むのが、雑踏を行く人達の姿なのでしょう。(身理的不安状態)

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立つことも歩くこともですが、その他の身体動作も、本来は心地よく静かな喜び(安心感)を伴うものです。人間に苦行をさせるために、自然(の神様?)が身体動作を私たちに与えたわけでは無いはずです。なぜ苦行になるかと言えば、人間の文明が発達することで、自然本来の理に叶った身体の使い方を忘れ、自然を離れてしまったからでしょう。

私が「身理学」を提起するのは、人間の身体活動を、自然の理に叶ったものとして学び直して行くことが必要だと思うからです。もし野口・竹内の遺した仕事をカテゴリーに入れるとすれば「身理学」がぴったりするような気がしています。

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学問の部外者である私が提起しても、説得力はないでしょう。けれども言葉を作り出していかないと、私の仕事は世間に繋がって行くことが難しいようです。先ずはご笑覧くださいませ。


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テーマ:人生を豊かに生きる
ジャンル:心と身体