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2016年06月05日 (日) | Edit |
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禅の公案に「橋流水不流」(橋は流れて水は流れず)と言うのがあります。私は、新宿の歩道を歩いていたときに、「ああ!そうだったのか。」と、その言葉の意味に納得が行きました。車道を軽快に飛ばして行く白い乗用車がふと目に入ったとき、その自動車が眼の前にはっきりと止まって見えたのです。そして自動車の回りの景色が流れ去っていたのです。
 
普通には、流れるのは水(川)で、止まっているのが橋です。それが禅の公案では、水が止まっていて橋が流れてしまうというのですから、常識的に言えばそんなことはあり得ないことです。
 
どう考えても、ガードレールとその向こうの車道や背景にあるビル街は、地上に固定されていて動かない。そこを自動車が「動いて」走り抜けていくのです。そんなことは子供でも分かると、お叱りを受けそうです。
 
ところが、私の目の前でそれが逆転し、自動車が止まって見え、その背景が流れ去っていたのです。「橋流水不流」(橋は流れて水は流れず)は、本当にその通りだったのです。この場合は「道流車不流」(道は流れて車は流れず)となりますが。(15年前の出来事です)
 
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実は、これが「集中」の私にとっての意味です。
 
ふつうに「集中」と言うと、意志的に、意識の焦点(注意)を一点もしくは一つの対象に集めることでしょう。虫眼鏡の焦点を、教科書や黒板に集めることと言えばわかりやすいですね。よそ見をせずに一所(ひとところ)を見ることです。そのほかに「集中」というと、緊張感の高さ、テンションの高さ、ある種の厳しさをもって対象に向かっている様子のようです。(能動的集中)
 
ところが「道流車不流」の意味する私の「集中」体験では、意志的に自分を対象に差し向けることはしていません。ふだん通りに歩いていて、ふと道行く車体が私の視野の中に飛び込んで来る。そして白い車体に私のまなざしが引きつけられ、視覚器官(+全身の感覚器官)が、対象に貼りついてしまう。注意が対象に持っていかれると行っても良いかもしれません。このとき私の運動器官は自分自身の意識的コントロールを離れて、対象の動きに自動的に同化・同期してしまっているのだと思います。(受動的集中)
 
私がレッスンの中で求めるのはこの「集中」=「受動的集中」なのです。
 
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こういう話をすると、「よし、自分もやって見よう!」「動くのは自動車ではなくて道路なんだな。」「自動車に視線を合わせると確かに背景が動いて見える。」「その通りだった!」などと言う人がいるかもしれません。残念ながら「受動的集中」は、意志的・意識的努力によって達成できることではありません。
 
意識的な努力をしている限りは、「集中」しようとする意志自体が、対象が向こうからやって来るのをはじき飛ばしてしまいます。このような見方を成立させようと、意識的に努力すること自体が、そもそも意識の勘違い・思いこみ・嘘っぱちを生むことになるのです。
 
私の場合は、若い頃、まったくの世間知らずであったころに、林竹二・竹内敏晴・野口三千三の三人の師に出合うことで、意志を経ずしてからだからからだへと、直接に様々なかたちで「受動的集中」を体験させられました。
 
「橋流水不流」(橋は流れて水は流れず)の禅の公案を眼にしたのは、師匠たちを離れて10数年を経てからです。ちょうどこの頃の私は、以前、師匠たちのレッスンを受けていたときに体験したことの意味を、体験だけではなく、自分の考えとしても理解したいと思っていました。

鈴木大拙(禅者・禅学者)さんの語る禅の書物の中に、レッスンを理解するための手掛かりがあることを感じ取り、鈴木大拙全集30数巻を読破し、そこで公案について知りました。
 
なにが言いたいかといえば、「橋流水不流」の公案を手掛かりに「受動的集中」をこのとき鮮やかに体験することが出来たのは、その10数年前、私が若い頃に師匠たちから受けた体験が元に在ったからだと思ったのです。「受動的集中」を自ら経験した人(師匠)と場(集団)が必要であったということです。

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私たちの意識(意志・エゴ)は、能動的集中(Doing)によって、すべてが実現可能であると思いこんでいるのです。これは個人の思いや考えと言うより、意志・意識自体の持つ特性のようです。それを打ち砕いたところに、「受動的集中」(Being)が体験され、意識(分別・判断・対象化)による世界との分断を越えて、対象との直接の交流が可能になるのです。

「能動的集中」を意志的意識的な集中といっても良いでしょう。「能動」というのは自分の側から働きかける、動くことです。自我の関与が付き纏います。
 
「受動的集中」は相手(対象)によって動かされる。相手の動きや存在によって自分(自我の関与)が失われてしまい、働き(知覚)や動き(行動)が対象(相手)によって引き出されるのです。自己の実感・実体感は失われ、予測や常識的な価値判断は停止し、相手と自分とが切れ目のない直接の関係に入ってしまうのです。(「いまここ」です)
 
「受動」と言うと何もしない非行動的な引きこもり状況を思ってしまうかもしれませんが、そうではありません。むしろ、自我の関与を離れた、自他の生々しい交流、いのち自体の交感が始まります。

しかしながらこれは、「橋流水不流」の次の段階の話ですね。私は竹内敏晴の指導する場で、それを体験しました。「出会いのレッスン」です。この先はまた何かの機会にお話ししましょう。
 
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禅の公案の凄さは、知性の完全否定ですね。どんなに一生懸命知性的に考えて答えを出しても駄目なのです。体験を持って師匠に答えを示さなければならない。

そして体験の側から、知性(自我)の限界を観ることが出来るようになるのです。蘊蓄(ウンチク)を離れて、自己を裸のままに晒したところに立つしかないのです。日本人のとても素晴らしい、いまだにいのち脈打つ文化遺産です。

残念なのは、公案への返答に対して、「その通り」「そりゃ嘘っぱち!」と、ハッキリと言い切ることが出来る人が、とても少なくなっているのではないでしょうか。

現代において、私たちが共に在ること(Being)の根底を為す「からだ」が失われ、脳味噌偏重、ノウハウ(Doing)第一の風潮が蔓延してしまっている結果だと思います。


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ジャンル:心と身体