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2016年05月09日 (月) | Edit |

2016-04-12 001ed

「からだの中から出てこない」「胸と首のあたりにまとわりついている」「すぐそこで止まっている」「真っすぐに出てきた」「あっちに行った」「私のからだにふれてきた」「こちらに届いた」「からだに飛び込んだ」「部屋全体に広がった」。何のことを言っているか分るでしょうか。

まるで羽虫を追いかけているようで、「声」のことだとは、ほとんどの人が思われないでしょう。けれどもレッスンの中で、「声」はこのような実体のあるものとして、私には見えています。

こんなことがありました。

オペラの歌手の方が、声を出したときのことです。母音の「あ」の発声をしてもらうと、部屋中にみごとな声が響き渡りました。当人もまわりの人も、気持ち良く声が出ていると思っているようです。ところが私は、どうも「こえ」が出ている感じがしない。響きはよく聞こえるのですが、こちらに触れてくるものが無いのです。

そこで、発声に伴う身体の強ばり(緊張)を弛めて、声を張らずに真っすぐに、こちらに向かって「こえ」を出してもらいました。始めは、声をだすための構え(緊張)の方に意識を取られていて、なかなか相手のほうに注意が向きません。相手に集中しなければ「こえ」は出て行きません。力を抜いて相手を見て、相手に声を届けるつもりでと促すうちに「こえ」が光の束のように、力強く真っすぐに出て行くのが見えました。相手の人も「こえ」が届いたと喜んでいます。

小さな声でも大きな良く響く声でも、もちろん音声としては耳に届いています。けれどもそれは音量であって、質量ではないのです。「声」の質量というより、実体感と言った方が分かりやすいかもしれません。私はそれを見ています。実体感を持った声を平仮名で「こえ」としておきます。

こんなこともありました。

声量が無くて、耳を澄まさないと聞きとれないような声で話す女性がいました。けれどもか細いながらも「こえ」はこちらに向かってきます。「こえ」がキラキラ輝いて観えるのです。

「こえ」が届くとき、その人の中にある明るさが、真っすぐにあふれてきて、こちらに向かって触れてくるように、私は見えるのです。

    *    *    *

これは私のカミングアウトですね。これまで身近な人にも、このことはあまり詳しく話さないで来てしまいました。「こんな常識はずれなことを話しても意味が無いだろう」くらいに思って黙っていました。裏を返せば「これを言葉にすると、私自身が常識の外側に立たされて、世間から孤立してしまう」という怖れがあったのでしょう。話しても分かってもらえないつらさもあったと思います。世間に寄りかかっていたくて独自・孤独から逃げ回っていたのです。

でも、これが私の物事を見るときの真ん中にある体験のひとつです。こうやって言葉にしないと、私自身にとって、この先が見えてこないのだと思います。

    *    *    *

産声を、「いのち」のこの世界に向かって発する第一声と考えれば、大人になっても、誰もがそのような「こえ」を自分の中に持っているように思います。その「こえ」は、それを聞く(見る)人に、また声を発する自分に対しても、「からだ」と「こころ」を解き放つことを促します。

昨今の時代の価値観は、「こえ」を押し殺す方向に向かっているようです。「いのち」の現われとしての「こえ」を無視している近代文化・文明の中で、私自身も殺されて行くような気分です。生きていかなくてはと思っています。


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