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2016年03月05日 (土) | Edit |
2016-02-21 002ed  

「道端の花が、ふと私の心(からだ)に飛び込んで来ます。鮮やかに咲き誇る小さな花弁の輝きに、いきなり自分の心(からだ)を占拠され、自分を取り繕う間はありません。「私って素敵でしょ!写真に映して!」と花に呼びかけられている気がします。私は急ぎカメラを取り出し、咲き誇る花の姿を写真に収めるのです。」

昨今興隆をみているマインドフルネスは、効果や効能を喧伝したり、瞑想の技法の紹介ばかりで、マインドフルネスが本来何を目指しているのか、とても分かり辛くなっているようです。

私にとってマインドフルネスとは、上述のような感じ方を育て、世界との交流を体験するることです。呼吸法も身体の調整法も、こんな体感を取り戻すための手がかりです。

・花の輝きを心(からだ)に受け入れるには、私たちの心を縛る意識の働きを弛めなければなりません。『自我意識によるジャッジメント(判断・審判)を停止』し、眼の前に生起する出来事を、ありのままに受け入れる。言葉(意識・知識・既成概念)を差し挟まずに、美しさを美しさのまゝに、輝きを輝きのまゝに受け取るために、意識の集中対象を前頭葉から身体感覚へと導き切り替えます。

・『呼吸を感じ続けることで息を詰めない。』息を詰めることは、状況との交流に蓋をすること、門を閉ざすことです。呼吸を感じ続けるという単純なことが、世界との交流を取り戻す手立てです。他者や自然との感情・感動・心情の交流は、息を塞いでいては成り立ちません。香りも彩りも花の輝きも、息を詰めていては心に届きません。

・緊張に身を固めることは、対象と自らの心の間に壁を作ることです。皮膚感覚や内臓感覚まで、緊張はその働きを縛り、全身的な感覚的交流に蓋をします。花からの繊細な呼びかけを全身で受け取るには、『からだ全体の緊張を解除し、自縄自縛から逃れるために姿勢を調え』なければなりません。

・もちろんこの他にも様々な考えや、それに基づいた技法と意味づけがありますが、きりがありません。単純なことを、心地よく繰り返し続けることができるのが、私たちにとっては大切なことでしょう。これだけで、自我(エゴ)の鎧の強迫から開放されることでしょう。

マインドフルネスの感じ方は、言葉を持たない子供のそれです。幼子の見せてくれる、喜びに満ちた表情を、無心とか無邪気と言います。誰もが本来持っている、人間の在り方です。そのような喜びを忘れたところ、放棄したところに、私たち大人は生きているようです。花を愛でることのできる心とからだを失ってしまっています。

それは本当の喜びから眼を伏せて、社会的な主義主張や評価にばかり心を向けているからです。それが現代の、こころとからだの様々な病の根になっているのではないでしょうか。

これは私の思いこみの解釈ですが、マインドフルネスを唱え始めたティク・ナット・ハン師は、禅の修行の中で、こんな感じ方を自らの中に育てたのでしょう。ベトナム戦争の最中に、花や民草(民衆)のいのちの輝きに導かれて、行動(エンゲージド ブディズム)を続けたのではないでしょうか。

(心が実体化したのがからだで、からだが消えると心になるのかな?こころはからだでからだはこころですね(笑))

今月3月20日(日)に、人間と演劇研究所特別講座『野口体操からマインドフルネスへ――「すがた」と「いき」を知る』を開催します。興味をお持ちの方は、研究所ホームページ http://ningen-engeki.jimdo.com/ワークショップ/3-20特別講座-1/ をご参照ください。

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