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2016年02月25日 (木) | Edit |
2016-01-02 007ed

最近「気付き」という言葉を耳にする機会が多い。レッスン(ワークショップ)後のシェアタイム、参加者に感想を求めると「こんな気付きがありました」とか「多くの気づきを頂きました」、「今までにない自分への気づきがありました」等々。

私は、それを聞くたびに、違和感を覚えていました。「こんな新たな発見がありました」「多くの新たな理解を頂きました」、「今までにない自分(自己理解)を発見しました」等々、前記の例を書き換えればこうなります。「気付き」とは「自分の常識を超えた新たな理解を発見すること」の意味で使われているようです。

どうやら、私にとっての「気付き」はそうではないのです。では私にとって「気付き」の意味とはなんだろうか。以下、「気付きとは」。

     *     *     *

「気付き」とは「変わる」ことである。気付いたから→変わると順を追った体験ではない。「気付き」と「変容」は同時に成立する。

気付いたとたんに退路は断たれる。退路が無ければ、後戻りはできない。未知の地平へと歩を踏み出すしかない。

生きていることの一歩一歩が、後戻りのきかない、予測を許されない新たな歩みになる。眼の前にやってくる光景を身に受けて、繰り返し新たに前を向いて行くしかない。独立独歩の道である。

「知識」や「経験」は過去のお荷物だ。お荷物の正体は常識の積み重ね。「気付き」の役には立たないもの。重荷を背負っていては前には進めない。

「気付き」は行動だ。「理解」や「発見」はやって来ては通り過ぎて行くものだ。理解や発見に止まっていては「気付き」ではない。理解や発見にしがみつくなら、それは行動を引き留めるお荷物にしかならない。

他を頼むことなく、「いのちの無限循環」の中を歩き続けることこそ「気付き」である。すべての他の中に自分を余さず放り込み続けることでもある。また、すべての他を自分の中に余さず受け入れ続けることでもある。

     *     *     *

「気付き」とは、気付いた瞬間から、今までの自分のままでは生きられなくなる体験です。存在の丸ごとをかけた、自我(エゴ)からの飛翔です。

それが一般には、理解や体験を得ることの意味に置き換えられてしまっています。自我に理解や体験を新たに上塗りして行くこと(足し算)が、「気付き」の意味内容になってしまっています。私にとってそれは「気付き」ではありません。

「気付き」とは、引き算の果てに向こうからやって来る体験です。既得の自己理解や自己の実感を剥がしていく。過去の蓄積からくる理解や体験によっては思いも及ばない、言葉にもならない、けれども確かな体験が成立し、新たな地平へと自分を押しやる。だから「気付き」と呼ぶのです。

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