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2015年11月26日 (木) | Edit |
2015-11-10 014ed

からだからからだへと直接に学ぶという考え方があります。からだからからだへと移し取る在り方です。「からだで学ぶ」としておきましょう。

最近の学びの場では「意識を介して学ぶ」、つまり、意識を介して知識や技能を学ぶという考え方が主流になっています。

野口体操の「ぶら下がり」の動きを練習するとき、先ず私がその動きをやって見せます。それを観ていた参加者も「何となくこんな感じかな」と思って実際にやって見ます。この「何となくこんな感じかな」が、からだからからだへと受け渡しが成立したということだです。「からだで学ぶ」ことの始まりです。

そうして参加者が自分なりに動いているのを、私も私自身のからだで受け取って、それを真似してみせます。「皆さんの動きを見ていると、こんなふうに少々ギクシャクしている感じがします。ちょっと頑張りすぎですね。」それを見て、参加者は「たしかに自分のやり方はそんな感じだ!」と、それを自分のからだのこと(体験)として受け取り、自分のやり方を自分なりに変えて動いてみます。


0:00~0:27までが「ぶら下がり」の動きです。

そんなやり取りを繰り返すうちに、野口体操の「ぶら下がり」のうごきが、皆さん楽にスムーズにできるようになってきます。私がはじめにやって見せた野口体操の動きが、参加者のからだに受け取られたわけです。からだの集中と感受性が深まれば、私の動きよりも滑らかで美しい動きが参加者の中から生まれてくることもあります。

「からだで学ぶ」とは、「感じること」をからだからからだへと直接に受け渡し合うことです。「感受性を主にした学び合い」とも言えるでしょう。

現在、一般に学びといわれているのは「意識を介して学ぶ」ことです。たとえばラジオ体操では、予め決められた型と動作と音楽があります。「ここはこうしてこういうふうにやって」という正しいやり方があるのです。また動作と形には「これこれの意味があり、目的がある」となります。たとえば呼吸筋の活性化のためには、腕を大きく持ち上げ横に下して胸郭をリズム良く動かしましょうなどとなります。

指導を受けて、あるいは自主的であっても、意識の命令・努力によって身体の動かし方を学び、効果を求めて、理想の身体の在り方へと近づいていく。これは「意識を介して学ぶ」ことなのです。

実は「意識を介して学ぶ」ことは、現代社会を生きるためには、必須のものです。各種マニュアル、何某メソッド、何某術、コミュニケーション法、、、、各種の資格。現代社会というシステムに関わって生活するためには、PCの操作法をはじめ、様々なテクニック(技能)と知識を持たなければなりません。必要に応じて様々な意識的な学びが必要になります。

自分という存在を如何に有用な道具(物)としていくかが、社会で活躍するために求められる能力です。それは「意識を介して学ぶ」ことによって成り立ちます。からだの感受性を必要としない、知性が主役の学びです。

「からだで学ぶ」とは、感受性が主役です。二人の人が対人的な仕事の場で、クライアントに対して同等の技能・知識で対応をしているのに、かたやスムーズな人間関係を築いていて、もう一人はクライアントとの関係がぎくしゃくして困っている。おそらくこのような場合は、片方の人は「からだで学ぶ」体験が無いために、クライアントの心身の情況を繊細にくみ取る感受性が十分に育っていないのでしょう。

親から子供へ、師から弟子へ、祖先から現代人へと、単細胞生命体から人間へと、意識を経ずとも、からだからからだへと受け渡されて来た、言葉にはならないながらも、いのちを司るための莫大な体験の積み重ねが、からだ(いのち)の中には在るように感じています。「意識を介して学ぶ」ことよりも、いまは「からだで学ぶ」ことをもう一度見直さなければならない時に来ているように思います。

【技能至上になり過ぎていると常々感じています。人間といえども生き物です。感じる力が退化してしまっては、生物としての存続が危ぶまれる気がしています。そんなことを考える手がかりとして、記事を書いてみました。まだまだ言葉になり切らず、ボンヤリで御免なさい(笑)】

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