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2015年11月22日 (日) | Edit |

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後ろ向きで歩いてみます。眼で見ない。背中で見ながら(?)部屋の中を歩きます。他の人に触れたら、背中合わせになって、背中でお話ししてみます。

相手の背中の感じはどうでしょう。暖かい、冷たい、柔らかい、固い、相手を感じるままに背中を動かしてみる。良い感じ、嫌な感じ、感じたままに。

背中でさようならをして、また後ろ向きで歩き出します。背中で他の人を探して、その背中にも触れてみます。さて、今度はどんな感じでしょうか。

繰り返していると、様々な背中の感じや表情があるのが分かってくる。さて自分の一番のお気に入りの背中はどれでしょう。背中で二人組になり、向き直って顔を合わせます。からだのつながりの中に、微笑ましく新鮮な関係が生まれます。

* * *

私たちは普段、相手の表情や容姿を眼で見て判断しています。眼で見ることは、意識(記憶)に蓄えられた体験に基づいて、相手を見ています。この人は良い人だとかちょっと気に入らない、機嫌が良さそうなど。さしあたり、外見で判断するしか無いわけです。

これは、相手とともに「いま」という瞬間を共有しているようで、実のところは眼差しが「過去」を見ています。もちろん、「過去」の体験を手掛かりに、それをあらためながら、相手との関係を深めていくことは出来るでしょう。けれどもその相手は、どこまでも自分の意識(=過去の記憶)の中での相手でしかありません。

そしてそれは、かならず裏切られます。自分の記憶の断片を紡いで作り上げた他者像でしかありませんから。現実の他者は、自分とは異なる関係の中で育ち生きているのですから、そこには収まらないのが、当然なのです。これが「意識的判断」の限界です。

眼で見ることを止めて、背中で相手を探し、触れてみて、背中で話しをしてみる。常識はずれな課題(ワーク)かも知れませんが、ここには「いまここ」があります。意識的な判断が停止されることで、過去の体験の記憶を持ち込むことなしに、直接に相手を感じて行動するしかない。「いまここ」とは、未知の世界に身(からだ)を投じて発見されるもの。旅して新たな出会いを生きるとでも言いましょうか。「いまここ」に始まり生まれ、去って行く冒険のひと時です。

「いまここ」に立つために私たちにできることは、「いまここ」をつかまえよう、集中しようと、努力することではありません。「いまここ」には、座標も面積もありません。そこに過去や未来を持ちこもうと忍び寄る、自我の働きをいかに振り切るかが大切なのです。「背中で見る」その非常識さが「いまここ」=自由への手がかりを与えてくれます。

【「からだとことばのレッスン」と「野口体操」は、「いまここ」をどうやって捉えるか、この一点に向かうワーク(実技・実践)です。厳しい言い方をすれば、自我の振舞いを振り捨てて一歩前に出ること。「いまここ」は、表現や想像力・生命力の源なのです。】

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