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2015年11月03日 (火) | Edit |

2015-09-21 065ed 

先日、個人レッスンでのことです。Kさんから「股関節のゆるめ方が良く分からない」と言われて、開脚で足の付け根や脚の裏筋の緊張を、一人で弛める体操を指導しました。

床に腰をおろして、片脚を投げ出して、股関節や骨盤の周辺をユラユラと揺らしてほぐし、胴体の重さを利用して脚の緊張を弛めていく運動です。

3分ほど片脚の感じに注意を向けながら強張りをゆるめ、それから両足を前に投げ出し、両脚の感じの違いを比べてみます。Kさんの両脚を見てみると、片脚が明らかに緩んでいいます。片脚は柔かくふっくらしている。まだ弛めていない脚は、中身が詰まった硬いこん棒のよう。足の長さも緩んで違っていることが見て取れます。

ところが、Kさんに、両足がそれぞれにどんな感じがするか尋ねて見ると「(両脚の違いが)良く分からないと」といいます。私から観ていると、注意を向けて弛めた片脚の感じが、明らかに変わっているのが分かるのですが、当人はそれが分からないという。


【骨盤・股関節・脚・足をゆるめる体操】

「感じる」というのは外から努力を強要できるものでは無いので、もっと良く感じるようになどと指示することは出来ません。お互い困ってしまいましたが、ともかくもう一度、股関節とその周辺をゆらして弛める動きをやってもらいました。

こんどは、私もじっくりと、Kさんのからだの動きの様子に注意を向けます。「股関節や骨盤の中身の変化の感じに大切に注意を向けて下さい。」あらためて集中を促しましたが、そのとき私は、当人の意識の向け方と股関節の動きの間にずれがあることに気が付きました。

「からだを感じる」というのは、自分のからだの中の動きや変容を外から計るのではありません。普段の固定した意識をはなれて、からだの動きが主となり、動きと意識が一つになることです。股関節の揺れを外から意識するのではなくて、自分がその揺れ自体になってしまうことです。揺れていた体験を後から振り返れば、そのとき体験されたこととして、その感じを言葉にすることができるのです。

Kさんはというと、からだの感じに注意を向けようとすると、視線がからだの動かしている部分に向かいます。揺れることでからだの中に起きる変化を感じているのではなく、目で見ようとしているのです。感じようとすると、無自覚に視点が率先して対象に向かってしまいます。

そのことを指摘して、目で見ないようにと促したのですが、それがまったく出来ません。眼を閉じていてさえ、開いているときと同じように、自分のからだの中に視点をむけて眼で見ようとしてしまいます。からだの中が視覚で見えるわけがありません。感じようと集中することが、Kさんにとっては眼で見ることなのです。また、力の抜けた脚の感じと、緊張したままの感じとを眼で見て比べようとしても、やはり視覚優先で見てしまうので、「感じ」の変化が分からないのです。

「感じ」とは、柔かいとか暖かいとかフンワリとかスース―とかずっしりとか、、、どちらかといえば触感(触覚)が働かないと、感受できません。それなのに「どんな感じですか?」と問うと、答えを求めるように、視線があちこちに走ります。眼をつむっていても同じです。

困ってしまったのですが、Kさんが自分の思いに目を向け、考え込んでいる表情を見ていたときです。彼女は眼を細め自分の考え(心・思い)に視線を向けています。その様子を、私はなにげなく真似してみたのですが、ふと我にかえり目をひらいた瞬間、答えが見えてきました。その視線を切るためには、逆に大きく眼を見開けばいいのです。

Kさんに大きく眼を見開いた状態をキープしながら、股関節を弛める体操の動きをしてもらいました。視線が消えて、からだの動きと感覚がひとつになるのが見て取れます。Kさんも違いが分かったようです。脚の緊張が緩んでいく感じが分かるといいます。

眼を大きく見開くことで、眼球はキョロキョロと視線(視点)を移すことができなくなります。その分からだの内側の変化の感じが、視線に遮られることなく、意識に浮かび上がって来てたのでしょう。見る(視覚)ことが 感じる(触覚)ことに蓋をしていたのです。

すぐに、Kさんから弓道を習っている話しが出てきました。先輩から矢を射るときのからだの構えを直されるのですが、それが良く分からないといいます。自分では言われた通りにしているつもりが、出来ていないとのこと。

Kさんは弓を構えて矢を射るための一連の型と動作を、目でチェックしていたのでしょう。
そのときからだの内側に感じる力感や姿勢の内的なイメージは全く感じていなかったのだろうと私は思いました。

さっそく、的(まと)に向かって立ち弓を構え矢を射る動作を、空手(くうしゅ=弓・矢を実際には持たず)で、実際にやってもらいました。普段の練習と違うことは「常に眼を大きく見開いたままで」という条件付きなことです。

ふだん一生懸命に練習しているのでしょう。見ていると、一連の動作が流れるように進んで行きます。そして引き絞った矢が手を離れたとき、不思議なことが起こりました。なんと矢が飛んでいくのが見えたのです。実物の矢というよりも白光の矢なのですが、矢が弓を離れて真っすぐに飛んでいくのが目に見えました。Kさんにもそれが分かったようです。弓矢を射る動作によってからだに撓められた力が、光の矢となって繰り出されたのでしょう。

からだの不思議にお互いに驚き、また弓道という日本の精神・身体文化が生みだした身体技法(型・形・動作法)の凄さに目を奪われた一瞬でした。

直ぐに第2射を試みたのですが、そろそろ集中の限界にきていたのでしょう。矢は弓手の手元で散らけてしまうように見えて、本日の個人レッスンは、終了となりました。

これは後からKさんに聞いたことですが、さらに不思議なことには、第1射のとき、的に向かって伸ばしていた左腕が、とても大きく見えていたそうです。

眼(視覚)は、対象との間に距離を生みだします。触覚(身体感覚)は一体になることで対象を感じ取ることができます。いままでKさんは、視覚のみによって自分のからだと距離を置いて向かい合っていたわけです。眼を大きく見張り視覚の動きを止めることで、意識とからだとの距離が奪われ、自分のからだが身近なもの(大きなもの)となることができたのだと思います。

(眼で見ることばかりに捉われると、肝腎なものが見えなくなるようです。科学的ということは視覚的ということです。これは西洋由来の文化。東洋的な身体観には腹で見るとか、からだで見るという考え方があります。どうやら目で見ると限定しないことで、広がる世界があるようです。東洋由来といえば、弓道・剣道・茶道・香道・・・、この「道」というのが面白いですね。)


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