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2015年07月23日 (木) | Edit |
2015-07-02 001ed

ただ立つ、ただ歩く、ただ寝転がる、ただ声を出す、ただ朗読をする。ただ泣く、ただ笑う。実はこの「ただ」が難しい。人は自分の行動や態度に意味づけを求めるのです。

「真直ぐに」立つ、「カッコを付けて」立つ、「一生懸命に」立つ、「ぼんやりと」立つ、、、「努力して」立つ、「堂々と」立つ、「良い姿勢で」立つ。レッスンの場で実際に立って、その姿をみると、必ず「立つ」の前に意味付けがくっ付いてきます。

それでは「立つ」そのものは、どう云うことなのでしょうか。どうしたら成り立つか。そもそも意味付けの無い「立つ」などと云うものがあるのでしょうか。

答えを先に言えば「ある」のです。そこに行きつくには「立つ」にへばりついている、「意味付け」を剥がしていきます。

意味付けとは、からだの緊張です。背すじを棒のように固めたり、顎を上げたり、腰を反らしたり、膝を固めたり、胸を持ち上げたり肩を怒らせたり、、、、。そのことで「立つ」ことの本質が見えなくなってしまうのです。

体裁を良くするための、あるいは無自覚に身に貼りつけた、筋肉の緊張を丁寧にほどいて行くことで「立つ」ことが現れてきます。からだの中に、透明な管のような方向性の軸が感じられるようになってきます。重心が下半身に安定し、足のウラを通じて大地との一体感が生まれてきます。自分(=意味付け=実感)が消えて、自分のからだが広がり空っぽになった気がします。

「立っ」ている実感が無くなり、「立つ」ことを支える自分の努力感のかわりに、外力によって立たされている感じがしてきます。実際、私たちが立つことは、地球の重力や大気圧が大きな支えになっているのです。体内の骨格や筋力だけで「立っ」ているわけではありません。私が「立つ」ことは、環境との交流や助力によって成り立っているのです。受動的に「立たされている」のです。

「ただ立つ」こととは、自らが自分の努力以外の何かによって「立たされている」ということの体験的自覚と、それを許容・首肯することによって成り立ちます。その時、まわりで見ている人からは「うん、立っている」という「肯き」があるだけです。見る側にも「~として立っている」という意味付けは必要が無いのです。敢えて言葉にすれば、見ていて「自然な感じ」「楽そう」「気もち良い」「スッとしてる」「キレイ」などと言う感想が漏れれてくるだけです。

今の時代、自分にいろいろと貼り付けて、自分を作ろうという「プラスの発想・思考」が蔓延し常識になっています。私どもがワークショップでやっていることは、この逆です。剥がして行くことで本来の姿を取りもどして行こうと云う「マイナスの発想・思考」なのです。「ただ」とは、本質そのものを捉まえるための、キーワードですね。

【「ただ」を「只」と書いて「ロハ」。いまはやりの「~無料」です。これは価値や意味のあるものを無料で提供しようということでしょう。けれども「ただ」は、価値や意味づけのないところに、本当に大切なものがあるんだよ、というふうにも読めます。道元さんの「只管打坐」・ソクラテスの「無知の知」は、「ただの人間である」ことを探求したのかも知れません。】

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